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ともす横丁Vol.17 母の葛藤

父が亡くなり、母はひとり暮らしになった。

亡くなる直前、父の弱りようは目にも明らかだったのに、母は気づきたくなかったのかひどく鈍感だった。ひとりが現実になって、父のいないベッドや父の遺影を見ては消え入りそうに哀しそうな寂しそうな顔をして涙を流し、何度も何度も亡くなる前の話をして聞かせた。父のいないひとりの暮らしは耐え難いようだった。

ごはんを作る気力が失せ、今まであれほど手間をかけていたのにいい加減になった。母はずっと誰かのために料理を作ってきた人だった。母も気づいて何を作っていいかわからないと言った。

母とこれまでの人生を振り返り、家のため、誰かのために働いてきた人生から、ようやく自分のために生きられる人生にシフトしたのではないかと話した。母はうつろな目をして、それがまるで信じられないといった表情で、そうだねと言った。

足の筋力が弱っているうえ膝が痛くてゆっくりしか歩けず、歩けたらすべてが解決するかのような言いぶりで、そこから出ようとしなかった。週二回のリハビリには通っていたものの、それだけでは何かが足りないと穏やかに整えるリラクゼーションに通い始めた。ちょうど私が肩こりが酷くて近くにできたお店に行ってみたら、なんとも深い安らぎを感じて、これこそ母にピッタリだと思ったのだ。ここで母は心身ともに癒され、自分の身体の変化を感じ始めた。初めて自分を愛おしい存在と思ったかもしれない。

母は昭和16年に生まれ、8人兄弟の下から三番目だ。小さい頃はタバコや畳表を織るような農家だった。長兄が厳しく、聞けば今でいう虐待に近く幼くも家庭内労働者として扱われていた。長兄にしても思うにならない人生を抱え、それが戦後の復興期の厳しさとはいえ、同じく虚しく辛い過去だった。せめての救いは年の近い姉妹だったが、この春に頼りにしていたすぐ上の姉を亡くしたところで哀しみは一層深かった。

父と母の幼い頃の辛かった話が延々と続いた。母の心情を思うと吐き出せるまで吐き出すことが必要なんだろうと思い、妹たちも同じように時間のある時は話を聞いてくれたが、ほぼ毎日何度も何時間も同じ話を聞くのは正直しんどかった。父を亡くした娘の気持ちへの配慮は感じられず一方的で、自分の気持ちのやり場に困った。時に怒りさえ感じた。

ある時、耐えきれなくなり、母に「いつまでもそんなことでいいの?歩くのはつらいかもしれないけど歩けないわけじゃない、無いことばかり探してこれからの人生そうやって生きていくの?」とすごんだ。母は正気に返ったように口をつぐみ、何か思い返しているようだった。

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四十九日の法要が終わり義母と話した時、私が母の様子に耐えかねていることを話すと、義母が「由美ちゃん、そりゃ長年寄り添ってきたんだからね、娘とは違うと思うよ。」と言われた。はっとした。所詮夫婦は赤の他人なんだから娘の方が濃いぐらいに思っていたけど、一緒に過ごした時間からしてみれば、私の年+1年だからね、濃さが違うんだと思った。

これは母より愛されている存在でありたいという娘の驕りだったかもしれない。母は嗅ぎ分けていたんだろう。いろんな言動がすとんと腑に落ちたし、理解できた。だって、母には父しかいなかったんだから。私の中の何かがほどけ、緩まっていった。

最近は、「一緒にいた時間が長かったから由美子もつらいよね。」と言ってくれるようになった。母からそんな優しい言葉をかけられるとつい涙ぐんでしまう。

今、母は少しづつ自立の道を歩き始めている。自分のために料理し、朝の散歩を始めた。少し本を読んだり、家計簿をつけて今後の家計を考えている。毎週のエステは欠かさない。母の自分のためのくつろぎの時間だ。私は買い物や送迎などの用事や話し相手になるべく立ち寄り、採った野菜を届けたりするが、日常生活のことに手出しはしない。罪悪感は消えた。母が自分の人生を生きるのを応援したい。必要な手助けをしつつ、私は私の道を歩き、そして娘は娘の道を歩いていくのだ。

※2019年夏、息子の大学のある滋賀で両親と子どもたちと旅行した時の写真

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