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「文句を言うなら代替案を出」さなくてもいいけど

8年半の時を経て考え方がちょっと変わったなあと思ったこと。

こちらの続き(?)です。

この記事は8年以上前に書いたものになりますが、ビジネス界隈でも割りと「文句を言うなら代替案を出せ」という感じが一般的だったように思います。

その後世の中はわりと自由を大事にみたいな方向に大きく動いていき、フリーランス人口も1.5倍くらいに増えたりしているし、当然仕事観も多様化しているはず。

そんな中で「代替案、解決策がなくても別に意見を言っても良い」と、私自身もいまは思っています。
なにかを変えたり決めたりする力や権利や能力がある人が、そもそもその不満の原因となる事象に気づいているとは限らないし、実は結構簡単に解決できる可能性もあるしね。
元記事で言うところの「とりあえずここにキャンプするのは嫌だ(虫がいるし)」→たしかに危険な虫かもしれないから森じゃなくて砂浜で寝たほうがいいかもね、とかね。

もちろん、代替案を出して自分はこれをやる、というところまで持っていける人が当然重宝されるのは今も変わりないとは思いますが。

ただ、「代替案、解決策がなくても別に意見を言っても良い」にはリスクもあって、使い方を間違えると自分自身の首を締めるので気をつけたいところ。

まず、ネガティブな言葉や態度は一度口にしたら、表に出すことに躊躇がなくなるので「私は不満です!」「納得していません!」という態度を軽率に取ってしまう。
そうすると、周りの人からしたら決して気持ちの良い態度ではないので、周囲は自然と距離を取ったり、そのような話題に対して受け流す方向へ。
そういう人の不満をまともに聞いてたらこっちが疲れちゃいますからね。

結果、自分の守備範囲を超えて手を差し伸べてくれたり、アドバイスを貰えるようなチャンスが減っていきます。「私はやりたくないんです」と言っている瞬間は自分でも「自分にはこんなに同情すべき余地があるので仕方ない」と思っていますが、寄ってくるのは同じような不満をもつネガティブな人くらいで、助けてあげようとか一緒にやろうとかいう味方は増えません。

そして不満を口に出し、態度に出し続けていくと、はじめは大したことなかった些細な不満を、繰り返し自分に言い聞かせることになり、いつのまにかとても大きな不満になっていきます。

なんなら「意見したのに変わらない」「変えてくれない」というような方面での不満に育ってしまったり。これは代替案を考えたり、自分はなにができるだろう、どうやったら意見を通せるだろう、という思考でいる人には起こらない現象です。

不満を持つこと自体は個人の自由だし別にいいと思うけど、それを深く掘り下げたり、自分でハンドルを握ったりすることを放棄すると、どんどん自分のマインドをマイナスに引っ張っていって健康じゃなくなるので、やっぱり時間をかけてでも代替案を考えたり、「自分がどんな役割を担うか」を考えたほうが、結果として自分の精神も健やかでは。落ちるところまで落ちてなにも考えたくなくなってからは戻ってくるのが大変だからね。

仮にやってみてうまく行かないとしても不満の解消に自分の手を動かし、自分の意志を反映できる可能性が高い選択をしたほうが、後々なんやかんやいいんじゃないかなー。



実は予約投稿をしたくてnoteに課金してるのに全く書いてないし移植もしていない…twitterも1日1投稿(予約)がやっと…情けない…

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