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③貴族政治と国風文化4-4

4.院政と平氏の台頭

保元・平治の乱

武家の棟梁としての源氏は、東国に勢力を広げつつも、源義家の後は、内紛のためやや衰え始めた。これに変わって院と結んで目覚ましい発展ぶりを示したのが、伊賀・伊勢を地盤とする桓武平氏の一族である。中でも平正盛は、義家の子で出雲で反乱を起こした源義親を討って武名を上げ、正盛の子忠盛は、瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得、武士としても院近臣としても重く用いられるようになった。その平氏の勢力を飛躍的に伸ばしたのは、忠盛の子清盛である。
1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去すると、まもなく、かねて皇位継承をめぐり法皇と対立していた崇徳上皇が朝廷の実権を握ろうと、摂関家の継承をめざしてい兄の忠通と争っていた左大臣藤原頼長と結び、源為義平忠正らの武士をあつめた。これに対して、鳥羽法皇の立場をひきついでいた後白河天皇が、関白忠通や近臣の藤原通憲(信西)と結んで、清盛や源義朝らの武士を動員し、上皇方を攻撃して破った。その結果、上皇は讃岐に流され、頼長・為義らは殺された。これが保元の乱である。

関係図 ※参照:世界の歴史まっぷ

そののち、院政をはじめた後白河上皇の近臣間の対立が激しくなり,  1159(平治元)年には、清盛と結ぶ信西に反感をいだいた近臣の一人藤原信頼が源義朝と結んで兵をあげ、信西を殺した。だが、武力にまさる清盛によって信頼らは滅ぼされ、義朝の子の頼朝は伊豆に流された。これが平治の乱である。

平治の乱(平治物語絵巻) 1159(平治元)年 12月9日、藤原信頼は後白河上皇の御所である三条殿をおそって、上皇を無理に車にのせて内裏へ移し、三条殿を焼き払った。(ボストン美術館蔵)

この2つの乱を通じて、動員された武士の数はわずかであったが、貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての清盛の地位と権力は急速に高まった。

平氏政権

平治の乱後10年もたたないうちに、清盛は異例の昇進をとげて太政大臣となり、その子重盛らの一族もみな高位高官にのぼって、勢威ならぶもののないありさまとなった。平氏が全盛をむかえた背景には、各地での武士団の成長があった。清盛は彼らを組織することにつとめ、畿内から瀬戸内海を経て九州までの西国一帯の武士を家人❶とすることに成功した。

❶武士の社会では従者を一般に家人というが、鎌倉幕府の家人は将軍への敬意から御家人と よばれ、その後、御家人は武士の身分を示すものとなった。

しかも一方で、清盛は院近臣の立場を利用し、その娘徳子(建礼門院)高倉天皇の中宮に入れて、その子安徳天皇が即位すると外戚となって権勢をほこった。また、経済的基盤としても、全盛期には日本全国の約半分の知行国と500余の荘園を所有しており、その政権は著しく摂関家に似たものがあった❷。

❷清盛は京都の六波羅に邸宅をかまえたので、平氏政権を六波羅政権ともいう。

これら平氏政権は武士でありながら貴族的な性格が強かったといえる。
平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れた。すでに11世紀後半以降、日本と高麗・宋とのあいだで商船の往来が活発となり、12世紀に宋が北方の女真のたてたに圧迫されて南に移ってからは、宋(南米)の商人が盛んに通商を求めてくるようになった。これに応じて清盛は、摂津の大輪田泊(現、神戸市)を修築するなど、瀬戸内海航路の安全をはかって宋商人の畿内への招来につとめ、貿易を推進した。
清盛の対外政策はそれまでと比べると大きな変化であり、宋船のもたらした多くの珍宝や宋銭・書籍は、以後のわが国の文化や経済に大きな影響をあたえた。また貿易の利潤は、平氏政権の重要な経済的基盤ともなった。
しかし、平氏はもっぱら従来の国家組織にとって、官職の独占を進め、支配の拡大をはかったために、排除された旧勢力から強い反感をうけ、特に後白河法皇や院近臣との対立は深まるばかりであった。

1177 (治承元)年、後白河法皇の近臣藤原成親・僧俊寛らが、京都郊外の鹿ケ谷で平氏打倒の謀をめぐらし、失敗する事件がおこった(鹿ヶ谷の陰謀)。そこで清盛はつい 1179 (治承3)年、法皇を幽閉し、関白以下多数の貴族の官職をうばい、処罰するという強圧 的手段にうったえた。
それは一時、功を奏し、全国の半分近くの知行国を獲得するなど国家機構をほとんど手中に治め、清盛の独裁は完成するかにみえた。 しかし、こうした権力の独占はかえって反対勢力の結集を促し、平氏の没落をはやめる結果となった。

平安末期の文化

貴族文化はこの時期にはいると、新たに台頭してき た武士や庶民と、その背後にある地方文化を取り入れるようになって、新鮮で豊かなものを生み出した。寺院に所属しないなどとよばれた民間の布教者によって、 浄土教の思想は全国に広がった。奥州藤原氏の建てた平泉の中尊寺金色堂や、陸奥の白水阿弥陀堂、九州豊後の富貴寺大堂など、地方豪族の造った阿弥陀堂や浄土教美術の秀作が各地に残されている。

後白河法皇が自ら民間の流行歌謡である今様❸を学んで『梁塵秘抄』を編んだ事は、この時代の貴族と庶民の文化との深い関わりをよく示している。

❸今様は当時流行した歌謡であり、ほかに古代の歌謡から発進したといわれる催馬楽などがあった。

また、インド・中国・日本の1000余の説話を集めた『今昔物語集』の中には、武士や庶民の生活がみごとに描きだされている。
将門の乱を描いた『将門記』に続いて、前九年合戦を描いた『陸奥話記』などの初期の軍記物語が書かれたことも、この時代の文学が地方の動きや武士・庶民の姿に関心を持っていたことを示すものであった。田楽などの庶民的芸能が貴族のあいだに大いに流行したのも、同じ動向の表れである❹。

❹芸能では、すでに前代から舞楽や和漢の名句を吟じる朗詠が流行し、奈良時代に中国から伝来した散楽に由来するとされる猿楽も親しまれた

これまでの物語文学にかわって、『栄花(華) 物語』や『大鏡』などの国文体のすぐれた歴史物語があらわされたのも、転換期にたって過去の歴史 を振り返ろうとするこの時期の貴族の思想をあらわしている。
絵画では大和絵の手法が、絵と調書をおりまぜながら時間の進行を表現する絵巻物に用いられて発展した。『源氏物語絵巻』や『伴大納言絵巻」「信貴山縁起絵巻」をはじめ、多くの傑作がこの時期にうみだされ、なかには 『鳥獣戯画」のように、動物を擬人化していきいきと描いた異色のものもみられる。これらの絵巻物や「扇面古写経」の下絵には、地方の社会や庶 民の生活がみごとに描かれている。
平氏にあつく信仰された安芸の厳島神社には、豪華な平家納経が残されており、平氏の栄華と同時にその貴族性を物語っている。

『信貴山縁起絵巻」(飛倉の巻、部分) 12世紀の絵巻。 命運という僧が鉢をとばして長者(地方豪族)の倉を信貴山まで運んだという話などを描いたもの。動的な線描で庶民の生活や風俗を描いている。(奈良 朝護孫子寺蔵)
扇面古写経 扇紙に大和絵で当時の風俗を描き、これに経文をそえている。図は井戸端の風景で、つるべで水を汲む袿を着た女性の姿や、桶を頭 にのせ、裸の子供の手を引く袖なし姿の女性に、庶民の生活がしのばれる。(大阪 天王寺蔵)


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