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③貴族社会と国風文化4-2

4.院政と平氏の台頭

後三条天皇と院政の開始

藤原頼通の娘には皇子が生まれなかったので、時の摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位した。すでに壮年に達し、個性の強かった天皇は、大江匡房らの学識に優れた人材を登用し、摂関家にはばかる事なく国政の改革に取り組んだ❶。

❶後三条天皇は、荘園整理令を出した他、桝の大きさを一定にした。これを宣旨桝といい、桝の基準として後世まで広く用いられた。

特に荘園の増加が公領を圧迫していると見た天皇は、1069(延久元)年に厳しい内容の延久の荘園整理令を出した❷。

❷荘園整理令は醍醐天皇の902(延喜2)年が最初であり、その後、1045(寛徳2)年に新立荘園を禁止するなど、しばしば出されたが、実施は国司に委ねられていて不徹底であった。後三条天皇はこれを記録所で統一的に行った。

この荘園令は、国司任せではなく、中央に記録荘園券契所(記録所)を設けて荘園の所有者から証拠類を提出させ、これと国司の報告とを合わせて審査し、年代の新しい荘園や書類不備のものなど、基準に合わない荘園を停止した。摂関家の荘園も例外ではなく、整理令はかなりの成果をあげた❸。

❸例えば、岩清水八幡宮領では、34カ所の荘園の内、21カ所だけが認められ、残りの13カ所の権利が全て停止された。

白河天皇も、後三条天皇の遺志を受け継いで親政を行ったが、1086(応徳3)年、にわかに幼少の堀川天皇譲位したのち、自ら上皇(院)として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握る院政の道を開いた❹。

とは、元々上皇の住居のことで、のちには上皇を指すようになった。女院は、天皇の皇后や娘が院号宣下があった場合である。院政の下では、院庁から下される文書の院庁下文や上皇の命令を伝える院宣が院の家政のみならず、次第に国政一般に影響を与えるようになった。院庁に支える職員は院司と呼ばれ、院司として上皇に仕えた近臣たちは、初めのうちは朝廷での官職はさほど高くなく、諸国の国司を勤めたものが多かった。

上皇は、中・下級貴族の中でも、特に荘園整理の断行を歓迎する国司(受領)達を支持勢力に取り込み、院の御所に北面の武士を置いて武士団を組織するなど、院の権力を強化し、ついに白河天皇の死後には、本格的な院政を始めた。
院政は、元々自分の子孫の系統に皇位を継承させようとするところから始まったもので、白河天皇の後も、鳥羽上皇後白河上皇と3上皇の院政が100年あまり続き、法や慣例にこだわらず、上皇が政治の実権を行使した。その下で摂関家は、勢力の衰えを院と結びつく事で盛り返そうと努めた。

院政の開始 神皇正統記 現代語訳
白河法皇は,天皇として天下を治めること14年,皇太子に譲位され(堀河天皇),太上天皇となり,政治を初めて院でおとりになった。・・・・・宇治の大臣藤原頼通の時代になって,頼通は三天皇の摂政・関白として50年余年間専権をふるわれた。・・・・後三条天皇が皇太子の時から頼通を心よく思っておられないとの噂が伝わり・・・・後三条天皇の即位とともに関白を辞して宇治に隠退してしまった。頼通の弟の大臣教通が関白になられたが,それほど権力をもたなかった。まして白河法皇の時代には院で政治をおとりになったので,摂関はただその職についているだけで名目だけのものとなってしまった。しかし,この時代から古来からの政治の姿が一変したと言ってよいのではないか。摂関が政治をしていた時にも天皇の宣旨や太政官符を下して行っていたのだが,白河院の時代から院宣や院庁下文を重視されたので,天皇もまた,ただ位についているだけに過ぎないものになった。世も末の姿というべきであろう。

僧兵(天狗草子)
興福寺の僧兵が天皇の使者に強訴しているところ。この絵巻の原本は13世紀末の作。

白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽の目、比叡山の山法師は自分の思い通りにならない」と言う言葉を残しています。これは、水害、確率、「比叡山延暦寺」(現在の滋賀県大津市)だけは、偉くなった自分でも思い通りにできないと嘆いた言葉であり、この言葉から白河法皇が延暦寺の権威に悩んでいたことが窺えます。実際に、当時の延暦寺や「興福寺」(現在の奈良県奈良市)は、神威を盾に僧兵が押しかける「強訴」を度々行っており、朝廷側は頭を抱えていたのです。

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