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無意識の中に「あの日の私」がいた

毒親系の漫画に惹かれて読むけど、読んだ後には心が徐々にザワザワしてくるのが苦しい。触れなかったら、きっと楽。でも、やっぱり興味を持ってしまう。

たくさん思い出す。私が自信を無くした記憶や自分の形が分からなくなった原因の言葉を。それらが頭に溢れてくると、心が苦しくなる。でも、そんな自分に「頑張ったね」という言葉はかけられるようになった。

どれほど、しんどかったかな。生きていけないくらいだったよね。そんな中でも生きようともがいて、生き延びてくれて、ありがとう。そう言えるようにはなってきた。

好きなものを取り戻して、ひとりの人間としての尊厳も取り戻して、父が死んだ時の自分を想像する。どれほど心が軽くなるだろうか、家に帰る足取りが軽い日が増えるだろうか、自由が広がるだろうかと思う。愛したかったけど、愛せない。愛すのは、もういい。あの人を愛せるようになる努力や、あの人に愛されたいと願う努力はもうしない。その分、やりたいのは自分を愛してあげること。少しずつ、好きになれてきた自分をもっと愛してあげること。

想像する時は怖い。お店のレジで店員さんと話すこと。だから、怖くなさそうな人だったら話せばいいと思って行きたい場所に行く。ここの店員さんは安全だろうか。そう思って人を見る。不思議。誰も怖いと感じない。頭の中の想像で考える世界では怖いのに、実際に人を前にすると誰も怖くない。この感覚が不思議で嬉しい。

あと2人、私の中に小さな自分がいるなと気づいた。憂と同じ時期に生まれた愛と、フィギュアで遊んでる小さな男の子。憂も愛せるようになる。そう思って、あの頃、自分に名付けた名前だったけど、その頃、私の中にいたのが、苦しんでいたのが憂と愛だった。

その偶然みたいな無意識の名づけに気づいた時、ああ、私はなんとなくこの子たちのことを認識していたのに、ずっと見ないフリをして、置き去りにしてきたんだなと思った。

空以外のみんなを思い出すと、みんな実家にいた。でも、もうそんなとこにいなくてもいいよって思ったから、今の家に招くことにした。

リビングで、みんながそれぞれ心地いい場所で過ごしてる。もう、実家には誰もいない。暗い部屋で膝を抱えている子もいない。その子たちの隣に自分が近寄れるようになった。その距離感が嬉しい。近づいてもいいと許してくれた。近づきたいと私が思えた。それが嬉しい。

誰にも分からなくても、理解されなくても私はすべてを知ってる。それでいい。私は、みんなが好き。不器用で素直になれなくて、自分いじめをするほど誰かの幸せを守ってきた、みんなが好き。

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