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noteから離れていた時間

最近、noteのediterをほとんど開けていなかったので、久々の投稿になる。
今年初のnoteかと思ったら、一月に書いていたが、やはりnoteから離れていた旨を書いた記事だった。
同じような内容になるのも微妙なので、note外でやっていたことを書くことにする。

一月よりは前向きな気分なのは、別名義の創作アカウントがだいぶ復帰してきたからだ。自分でこれなら、と思えるところまで来たので、いったん良しとできたからだろう。

noteの方では「アマチュアの創作者だ」と公言しながらも、基本は創作をせず日常的な日記に留め、別アカウントも明かさないスタンスにしている。
理由を書くなら、元のnoteは純文学、または一般文芸の色が濃かったので、完全エンタメ寄りで別の投稿サイトも充実している分野で書いている自分があえてnoteで創作をやる意義がなかったから、という程度の気持ちだった。
今は少し温度感も変わった気がするが、やはり他サイトの方が色々充実しているので、note創作大賞の時期でもない限りはエッセイやコラム、日記の方が強めのプラットフォームだな、と思っているので、依然として方針を変えるつもりはない。
だから創作については多くを語るつもりはないのだが、それでも僕の中では一つの山だったので、あえて記しておこうと思う。

創作者としてはなかなか復帰できずにいた僕は、ちょっとばかりnoteにいると辛かった。
書く量、書く頻度の話を見ると、遅筆な自分が嫌だった。
気にするべきではない、と分かっているくせに気になることこそが、僕にとっては嫌だったし、ちっちゃい自分というものを再認識させられた。
結局、すべて自分の問題のくせに。
書けない自分にコンプレックスがあるから、そんなことが気になるのだ、と分かっていたからこそ、本当に下らなかった。
だから僕は少しずつnoteから距離を置くことにした。
少なくとも、この状態が落ち着くまでは、と。

現在は、何とかその状態は脱したと思う。
今も遅筆ではあるし、自分の文章を読み返して打ちのめされることは多々ある。
ただ、人の言葉にざわつくことはなくなった。
だから読む方であれば、少しずつnoteに戻ってきている。

だが、この変化を僕の心境が変わったから、とドヤ顔でいたが、もしかしたらnoteが変わってしまったせいもあるのかもしれない。
note界隈のつながりが希薄になったことで、それぞれの関心が薄くなって寂しくはなった反面、互いを比べてどうこう言う、という文化はだいぶ下火になった気がする。
なんだか複雑だが、それもまた仕方のないことなのだろう。

いつかまた、年寄りの繰り言レベルの昔話ができるくらいに、noteが続いてくれることを願っている。