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あぁ。私はあっち側の人間になってしまったんだな|映画「花束みたいな恋をした」に思うこと

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「愛がなんだ」しかり、こういうサブカル系邦画はテアトル新宿で見る、と決めている私。

少し前になりますが観てきました。テアトル新宿では、きっと若いカップルにコメントをもらおうと待ち構える取材陣もいました。私はひとりでしたが。

こんな学生生活送りたかった~~~~


自分が好きなニッチなものを共有できる喜び。カルチャー面の好みが一緒ってセンスが近いっててことなんですよね。趣味が合う、気が合う!それだけでソウルメイトに出会えたって思えます。そんな運命的な出会いをして、やがて惹かれあう麦(菅田将暉)と絹(有村架純)。こんな恋して~~~って思うでしょ。素直に。なによりも、ふたりの鼻筋が美しすぎるのである。

固有名詞やばい

きのこ帝国の「クロノスタシス」、フレンズの「夜にダンス」など出てくるものが自分の思い出たちとリンクするのよ。小説はあまり読まないので、作家の名前にはピンとこなかったけれど、サブカルの上澄みをすくって他の奴らと自分は違うと思おうとしていた若かりし自分と重なる部分があって、恥ずかしくなったり。ワンオクを「聴けます」とか言っちゃったり、うっすらそういう大衆に好まれているものを見下しているところとかね。(今は自分と異なるセンスを持ってる人は否定しなくなった。ただそれを好きなセンスは心の底から分かり合えない、合わないなとは未だに思うけどね)

脚本の坂元裕二さんいわく、インスタなどで行動パターンを覗いて、そこにあった固有名詞を抜いているんだとか。そんな本当に上澄みをすくってたのに見事に該当してしまう自分は本当にサブカルのマジョリティだったんだろうね!

私は麦側の人間になってしまった

そしてふたりは大学を卒業し、ふらふらしているわけにもいかないので就職することに。社会の荒波に飲まれて、徐々にふたりの関係もうまくいかなくなっていき…。

別に望んでいなかった営業の仕事を始めた麦。1日でも早く仕事に慣れようとがんばり、残業だってする。自分を高めようと本を読んだり努力もしている。親の立場から見たら立派な青年になって…と涙するところだろう。でも、社会に飲まれた麦はもう昔みたいに絹とサブカル話で盛り上がることはないし、思考停止してパズドラをするだけ。社会的には立派なはずなのに、楽しくないのはなんでだろう。責任感持って仕事して、それを他人にも求めはじめ、好きに生きようとしている絹を甘えたやつだと思うようになる。

悲しいかな、自分もそれなんだよね。

20代前半の頃、アシスタントという立場でアルバイトだろうが経験を積みたいといろいろやった。そしてある程度大きな組織で仕事ができるようになり、利益を出してこそ仕事で、社内の決裁権を持つおじさんを説得するために数字で証明できる書類を作ったり、誰も自分の直感を信じてくれる人もいなかったし、そんな実績も作れなかったし。

だから今スタートアップで働いていて横のつながりが大事、人脈命、とか言っている、俗にいう意識高い系の人。遠くで少しバカにしながら自分はもうそれになれない悲しさもあるのです。バッターボックスに立たずに、観客席から見ることしかできていない自分。なんか大人になっちゃったなって思うし、昔ほど夢中になれるものもない。昔は大好きだったものが今はそれに向き合う体力がない。

夢だけではご飯は食べれないけど、なんだか毎日ワクワクしていた日々。なんだか歳をとったんだなぁ。いいも悪いも。

だが、私は諦めていない

仕事についてはそんな感情を持ってしまったけど、恋愛に関しては、いまだにこんな恋したい~~とワンチャンス狙っています。何歳になっても。


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