宝塚歌劇団 花組公演 「巡礼の年〜リスト・フィレンツ 魂の彷徨〜」 を見て

宝塚歌劇団 花組が9月4日まで公演していた「巡礼の年〜リスト・フィレンツ魂の彷徨〜」(以下「巡礼の年」)。

この作品自体にめちゃくちゃハマってしまいました。
終わった後もモヤモヤしてなかなか落ち着かない…というわけで、まぁいっちょ仕事の合間の気晴らしにでも、珍しく何かの作品についてきちんと感想でも書いてみるか…!
というくらいの軽い気持ちで、手をつけてしまったが最後、もはや感想じゃないだろという長さになってしまいました。
長すぎるので、自分でもこれが感想なのかわからない!笑

気晴らしに始めたものなので、誰かが読んで楽しい文章なのかはよくわからない!
が、リストに同じようにハマったわよ〜という方に「ふ〜ん」程度の暇つぶしで読んでいただくのが一番の…供養かもしれない…!
と思って公開してみます。

何のために感想を…何のために……?
わからない…わかってない…なにがなんだか自分でも…

どのようにまとめたらいいかわからず、何となく評論?風になってしまっていますが、評したいわけではなく、あくまで感想と捉えていただけますと幸いです。
そんなわけで、よろしければ気が向いた方はしばしお付き合いください。

※注1
音楽史、クラシック音楽には疎いので、情報の起点はほとんどWikipedia。と事前に少しだけ読んだ音楽史概略の本です。

※注2
個人の感覚に依る内容なので、本当に作品自体がそのようなことを言いたいかどうか、テーマを断定したいという文章ではありません。

※注3
いくつか載せたイラストは自作です。いらっしゃらないとは思いますが、お手紙などなど含め、無断転載しないでいただけますと幸いです。
※2023年劇団の著作権の案内が出まして、イラストを公開するのもよくないらしいので記事内のイラストは現在削除してます!
ちょっと文字ばかりで見づらいですが ご了承ください笑

史実のフランツ・リスト 略歴

トップスターの柚香光が演じた音楽家、フランツ・リスト(以下リスト)は、1811年、当時のオーストリア帝国領ハンガリーに生まれた。
有名な作品には、今日でもドラマや映画、フィギュアスケートなどの演技曲などでもよく使われる「愛の夢(S.541/R.211)」や「ハンガリー狂詩曲 (S.244/R.106)」などがある。
名前を知らなくても、多くの人がそのフレーズを聞けば「あぁ、これね」と思うであろう作品を作り出した著名な音楽家だ。

幼い頃、彼はパリの音楽院に「外国人だから」という理由で入学できなかった。
(これは、生徒数の多かったピアノ科だったからこその措置だったとのことなので、他の学科で受験していれば違ったのかもしれない)
何にせよ学び舎の門をくぐれなかった彼は、パリでいろいろな音楽家に師事して音楽を学んでいた。そんな中で、彼を手引きし続けてきた父が他界してしまう。リストはまだ、15歳の頃だった。
若くして、彼はピアノ教師の職で一家を支えるために働かなければならなくなり、そのとき教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が起こる。この恋愛は、令嬢とリストの「身分違い」が原因で破局した。

ほどなく、彼は、一度目のフランス革命の混乱も落ち着き、粛清を逃れた貴族とブルジョアジーが権力を振るったパリのサロンの中心人物になった。
その美貌と、「ピアノの魔術師」とも呼ばれた巧みな演奏技術によって人気を博したリスト。
ショパンやサンドなどと出会ったのもこの頃。数々の浮いた噂を女性たちとの間に囁かれだが、最終的に当時の社交界でも名うての美しさを持ったマリー・ダグー伯爵夫人との恋愛関係へと進んでいく。

駆け落ちのようにスイスへ逃避行したふたりは、10年間の間に三人の子供(のちのワーグナーの妻になるコジマもその中のひとり)をもうけながらも、破局。
のちに、生涯の伴侶になるカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人とキーウで出会い、ヴァイマールで同居するも、キリスト教のカトリックにおける婚姻問題が原因で結婚を認められることはなかった。
リストはローマで僧籍に入り、以後キリスト教的な題材での作品が増えていく。
1886年、精神的にも身体的にも様々な疾患を抱えつつ亡くなった。


巡礼の年〜リスト・フィレンツ 魂の彷徨〜

第1年:スイス

公演タイトルにもなっている作品集「巡礼の年」は、フランツ・リストが20代から60代までの時期に製作した幅広い作品を、ほぼ年代ごとに4つの区分で4集にまとめたものである。
詳しくはwikipediaの巡礼の年を参照されたし。
作品の収容の仕方からもわかるように、いわばリストの人生そのものをぎゅっとした作品集といえるだろう。

公演に主に関係してくるのは、「第一年:スイス」。
トップ娘役星風まどかが演じたマリー・ダグー伯爵夫人(以下マリー)と10年間を共にした、スイス生活の中で生まれた音楽が集められた時期の作品だ。

リストと三人の女性

現実のリストの人生のターニングポイントには、3人の女性がいる。

若い頃の身分違いの悲恋
 
カロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢

スイスで6年の逃避行、3人の子供、のちに革命思想
 
マリー・ダグー伯爵夫人

教養深い終生の伴侶、外国人として結婚を許されなかった
 
カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人

「巡礼の年」では、マリーだけが本作のヒロインとしてのポジションで存在しているものの、この三人の女性の要素が1人に集められたキャラクターが、この作品内での彼女として形作られている印象を受ける。

リストと対峙した際のキャラクターの内面の印象としては、終生の伴侶であるカロリーネがメインとして形作られているような気もするのだが、マリーが絶対的ヒロインであることは、「巡礼の年(音楽作品)」のはじまりが「第1年:スイス」の作品であることからも、揺らぎようのないことであるように思う。理由は次に後述する。

魂の彷徨う箱庭

公演の冒頭は、「巡礼の年 第一年:スイス」の第1曲「ウィリアム・テルの聖堂」からはじまる。

リストは永久輝 せあ演じる男装の麗人、女流作家のジョルジュ・サンド(以下サンド)とパリで成り上がることを熱く語っている。
しかし、史実における巡礼の年の作品制作の時系列からいけば、これは彼が曲を作ったスイスに行くよりも前の出来事である。

リストとマリーが革命の際にまみえる事
本当は別れていたショパンとサンドが一緒にいること
…などなど、この部分に限らず、この公演ではキャラクターや状況、史実との矛盾点が意図的に多数生じている。

この意味のある違和感から、この作品のキャラクター”リスト”は史実のリスト…ではなく、「巡礼の年」の作品内に宿るリストの無意識の魂なのではないか、と感じた。
創作物は伝記ではないので、史実に忠実である必要はないからだ。

この作品内のキャラクターは、すべて「リストの目から見た相手の印象」で一貫して描かれており、この作品がすべてリストの作ったリストのための世界であることがわかりやすく示されている。

主人公はリスト(作曲者)が作った作品の箱庭(「巡礼の年」)の中に生きる、箱庭の住人の意識のないリストの魂だ。
箱庭の中で生きる他の人たち(マリー、ショパン、サンド…など)は、主人公リストのためだけの、リスト(作曲者)に作られた存在である。

「巡礼の年〜リスト・フェレンツ 魂の彷徨〜」は、終始リスト・フィレンツの魂の内側を見続ける話だった。

作品全体を形作るキャスト、セット、などなど…のすべてが、リスト本人の"リストの苦悩の普遍性"を描いているように見えたのはうがちすぎだろうか。(なんというか、はたらく細胞というか)

というわけで、以下に、本編を追いながら、わたしが思ったことを場面ごとに書いてみようと思います。

承認欲求と自己肯定感の狭間で

「俺たちをバカにした奴らにわからせる」

この物語の冒頭は、リストとサンドがパリの屋根裏で愛し合いながら野心を語る場面からはじまる。
リストは歌いながら叫ぶ
「俺たちをバカにした奴らにわからせる」
「俺の音楽で」
わからせる、というのは「己の存在意義を認めさせる」ということ。

リストに満ちているのは、己の音楽が大衆へ認められることへの承認欲求である。

この頃のリストにとっての愛は、野心のための道具だった。
当然、愛人のサンドは彼の中の野心(=他者からの承認欲求)の擬人化のような女性。だからこそ「男と女に魂分けた」「俺たち」と、リストから捉えた時に二人は同じ人物のように表現されている。

パリの芸術家たちは、貴族やブルジョワジーの社交の道具として消費されており、リストも例外ではない。
史実のリストとカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢の恋愛のように、身分という壁は本物の愛を育むことを阻む。
ラプリュナレド伯爵夫人(演:音くり寿)は、リストを"見た目の美しさや高度な音楽技術で他の女性からも羨ましがられる若い愛人"として、フランツ・リストを自分の権力のトロフィーのように扱う。

それによって、どれだけ社交界でもてはやされても、リストはどこかで常に不安を感じて苛立っている。
それはパトロンの強大な権力や、見た目の美しさからのもので、自身の野心とは正反対に"俺の音楽"では"認められていない"とうすうす感じているからだ。

リストの時代に限らず、承認欲求という言葉は昨今わたしたちにも馴染み深い言葉である。
芸能人に限らず、インスタグラム、ツイッター、TikTokなどなど。
YoutuberやVtuberも含めて、何かを発信するということは、その何かを受け取る他者が存在している、ということを大前提として、近年のSNSは発展してきた。

ツイッターを例に考えると、リストはイケメンピアニスト10万フォロワーのアルファツイッタラーのような感じだろうか。
本当は音楽の腕だけで認められたいのに、顔ファンばかり。リプもDMも顔ファンばかり。もどかしいと感じながらも、やっぱり仕事だし、人から期待されてるし…なんだかんだ真面目というか…自分でもイケメンアピールを止められない。そしてまたフォロワーは増えるけど…何かが違う…。

これは人気者の悩みだとしても、一般人とて、ネット上の自分と本来の自分との乖離はよくある悩みなのではないだろうかと思う。
自分自身の望んでいる存在意義と、他者から望まれている存在意義の種類が違うことに苦悩を抱えながら、望まれた形でしか存在できない。
現代人のような近い悩みを抱えている、パリの社交界でのサロンの帝王リストの姿をそこに感じる。

「なんのために音楽を」

水美舞斗演じるフレデリック・ショパン(以下ショパン)は、そんな自暴自棄なリストの生活を諌めながらこう問いかける。

「何のために音楽を?」

リストはそれに「生きた証を残すため」と返答する。
彼は、己の存在意義、存在価値を示すためにピアノを弾いてもてはやされ、刹那的に生きることしかできないでいるからだ。

そんなリストとの対話の中で、ショパンは彼に
「生きてるうちに報われなくても」
と告げ、リストは大きなショックを受けて傷つく。

ショパンのような天才は"彼自身の音楽"に対して、生きているうちに他者からの評価を得なくても、彼の存在意義たるものとして本人の中でもそれが揺るぎないものだと突きつけられるからである。

リストはショパンの自己肯定感は"才能"の依るものだと思い込んでいる。
本当の才能のある人間には、無条件に存在意義が用意されており、本来の才能を持ち得ない(必死に音楽の中に存在意義を探している)自分の気持ちなどわかるはずがないと、跳ね除ける。

ショパンは、リストのなりたい姿そのものである。
他者に影響されずに認めたうえで、自己を確立しており、己の音楽の存在意義に疑問やためらいがないように見えるからだ。

「俺以上に成功している奴はいるのか」と他人に問いかけながら、誰よりも速く正確に弾く事でしか、自己を表現できないと自己評価を下しているのがパリ時代のリストだ。

そんなショパンに「本当に向き合うべきことが書いてある」と促された新聞の評論には、詩的な表現でリストが自己肯定感に欠けていることを指摘されており、彼は痛いところを疲れたような気持ちになる。
そんな中で、ショパンが弾き出した曲の才能に溢れた音をきいて、リストはさらに追い討ちをかけられるように打ちのめされる。

「子供は誰もが神の子供だ」

幼い頃、ハンガリーでは音楽の才能を認められていたリスト・フィレンツは、パリで2つの挫折を味わう。

1つ目は、パリ音楽院に入学を拒否されたこと(自分が平凡だと知ること)
2つ目は、ショパンの出現(平凡以上の才能があると知ること)

「子供は誰でも神の子供だ」というのは本当にうまいフレーズだなと思う。
これは、リストが才能ある子供だったからというだけではなく、両親や周囲に愛された子供ならば誰しもに当てはまる言葉だからである。

平和な子供時代であれば、生きているだけで本人が自分の存在意義を疑うことはないと思う。
才能があるともてはやされる子供は、さらに強固な自己肯定感を持っているだろう。そうでないにしろ、どんな大それた夢を見るのも自由で、誰にでも可能性が開かれており、自分のなりたい者の何にでもなれるような気がしているものである。

しかし、成長し他人と比べた時の自分の位置付けを理解できるようになってくると、だんだん現実が見えてくる。
「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」
という言葉があるように、才能や周囲の環境、金銭面など、大人になり周囲と自分を冷静に比べることができるようになるほど、たいていの人々が己が平凡であることを知る。

にもかかわらず、2つの挫折により、彼の自己肯定感は幼少期のリストは誰からも認められ、己や、己の音楽の存在意義を疑うことのない子供だった反動もあって、さらに粉々になってしまったのである。
才能があったからこそ、自分の存在意義を「他者と比べても平凡な音楽の才能のみ」だと思い込んだまま。

幼い頃には確かにあったはずの己の存在意義を取り戻すために、リストはショパン(才能)を必死に死に物狂いで追いかけ続けている。
その過程の中で、一番取り戻すべきはずの自分の子供時代(リスト・フィレンツ)を否定し、自分が自分としてそこに存在する意義を自分から捨ててしまっていることにも気づかない。

ショパンの才能を認めているのは自分自身なのに、ショパンのような才能を人から認められたい、というのは悪魔の証明である。
才能は、人の目に見えるものではない。
だからこそ、自分自身がそれを認めない限り、リストがリスト自身に才能や、存在意義を見出すことは永遠にできないのである。

「あなたに私の魂の写し絵を見たから」

エミールの新聞の評論に自分の真実を突かれたと思ったリストは、その評論を書いていたマリーに会いにいく。
「わかる わかる あなたは嘘をついている」
その言葉で、リストはマリーのことを、自分の本当の理解者なのだと思えたからだ。

自分を自分以上に理解している人になら、リストの本来の存在意義もわかっているはず。自分の存在意義を教えてもらえるはず、とリストは考える。
なにせ、前の場面でショパンに才能を突きつけられ続けるリストにはもう生きていくための拠り所がないからだ。

マリーは、リストから見て精神以外は満たされた貴族の女性である。
パリで支配されてきたリスト(あるいは芸術家たち)にとって、貴族は生きているだけで存在することを認められている人たちだったのではないだろうか。
だからこそ、彼女は絶対的な自己肯定感を持っており、それなのになぜか"居場所がない"ことに苦悩している。

彼女のいう居場所のなさは、
『自分がどこかに居ることは当然のはずなのに、今居ていい場所がない』
ということ。

リストの居場所のなさは、
『今の自分の存在意義を見失って、どこの場所にも居る意味がない』
ということ。

ふたつは同じようで、大きな差があるように思える。

それでも、リストはマリーという自分の理解者が、「わたしとあなたを重ね合わせた」と告げることで、マリー(=リスト)の場所を探すことが、自分の存在意義に対する問いの答えを教えてもらったような気がしたのではないだろうか。

彼はその言葉に呼応するように、サンド(フランツ・リスト/承認欲求)のいるパリから逃げ出して、マリー(リスト・フィレンツ/自己肯定)と共にスイスへと向かう。

リストの中の自己肯定感は、作品内でマリーの形をとっている。
サンド(フランツ・リスト/承認欲求)とマリー(リスト・フィレンツ/自己肯定)の間で絶え間なく揺れ動き続けるのが「巡礼の年」のリストの姿のように見える。

「僕はじいやじゃない」

スイスに逃避行したリストとマリーは、森の中で
「姫」
「じいや」
と呼び合いながら、追いかけっこをする。
一見、単なるイチャイチャ場面に見えるこのシーンだが、相手へのこの呼びかけが、二人の本質的なすれ違いを表しているような気がしている。

サンドが冒頭でリストを「王子様」と呼ぶが、それはリストが自身を逃避行に走らせた"虚像のフランツ・リスト"についてである。


彼がマリーへ使う「姫」という呼びかけは、彼女と何のしがらみもなく愛し合うことで"リスト・フィレンツ"が「王子」になれる。(姫と釣り合うのは王子のため)という自分の価値をあげるための対義的な呼び名である。

また一方で、貴族であることの閉塞感や貴族社会に馴染めず居場所がないマリーは、リストを「じいや」と呼ぶ。
自身を「姫」という役割に当てはまる「王子」よりも、使用人の「じいや」から見られる時のように、「ひとりの人間」として扱われたいように見える。

男性の名前を騙って評論を書くような女性のマリーは、庇護対象として、相手に居場所を当てはめられた女性の役割を感じさせるような「姫」という呼称を嬉しいと感じるとは思えない。
作中で何度も口にするが、彼女は男装の麗人であり、男と同等に働くジョルジュ・サンド(自分の足で居場所を獲得していく女性)に憧れているのである。
また、反対にリストのように身分の差で自分の尊厳が踏みにじられていたと感じている人間からして、「じいや」という従属関係が想起される呼称で呼びかけられるのは、内心穏やかではないと思う。

リストは「釣り合いがとれる」(=相手との同一化)ことを一番に望み、マリーは「あなたの姫じゃない」(=相手との分離)ことを望む。

「パリを離れたことを後悔していない?」と聞かれたリストが、「後悔なんてするわけがない」と答えるが、そのあとの彼の言葉は、半分は本心、半分は自分に言い聞かせるような言葉である。
リストの中では、彼はマリーと同化しているはずなので、彼女の幸せと自分の幸せに相違がないはずだからだ。

このスイスでのくだりは、物語の最後で二人が再会する際にリフレインされる大事なやりとりである。
愛情を持った相手との間であっても起こりうる、人間同士の相互理解の難しさが潜んでいる。

マリーはスイスでの生活で、自身を主体的に捉えることができるようになっており、パリにいた頃のような居場所がないという不満はない。
一方、リストのこの時の精神状態は、マリーとの生活でしか自身の存在意義を感じられない、というような、もっと切実なものである。

本当は、マリーの示す愛情だけでは、大きな挫折で削られたリストの自己肯定感は満たしきれない。
なぜなら、今までリストが自分を肯定できるものとして自分に認めていたのはフランツ・リストとしての「自分の音楽の能力」だけだからである。

彼女は、リストに音楽の能力がなくても愛してくれる。
フランツ・リストではなく、リスト・フィレンツを愛してくれるのだ。
だからこそ、苛烈にパリに居たフランツ・リストの存在意義(自分の音楽の能力への承認欲求)に否定的になる。
そうしなければ、リストは二つの自分の間で引き裂かれ、爆発してしまうからだ。

メインテーマである、「愛の夢(巡礼の日々)」を歌いながら銀橋を渡るトップコンビのふたりは、照明やセットも相まって、本当の夢の中を思わせる。
スイスへの逃避行で、リストはマリーから与えられた「自己肯定感」に溢れ、子供の頃のような純粋な幸せに溢れて、リスト・フィレンツとして愛の夢の中にいる。

でも、夢は覚めるから夢なのかもしれない。

「嬉しい?」

散歩から帰った二人の元に、パリから芸術家の仲間たちが押しかけてくる。

この時の二人の感情は対照的で、マリーは素直に旧友との出逢いに喜ぶ。
リストはというと、終始不機嫌で疲れたような顔で、彼女に尋ねる。

「嬉しい?」
「えぇ、会えると思っていなかったから」

この時点で、リストは若干夢から覚めているように見える。
マリーと自分の感情が、相反していることに気づいてしまったからだ。
当然ながら、ふたりはひとつではない。

これは、後の場面で彼女がリストが歓声に喜んでいることを理解できないと感じるのと対になっているように感じる。

リストは「君さえ居れば他には何もいらない」が、マリーは他の仲間が訪ねてきて「嬉しい」のである。
リストの中で、スイスでの自分の存在意義が若干ぐらつきはじめる。
マリーにとっての唯一が、リストの自己肯定の源だからだ。

少しでもさざ波が立てば、また自分がパリ(承認欲求)を求めてしまうことを薄々感じているからこそ、芸術家の仲間(リストの中では自分よりも上下というランク付けの中で構築されていた人間関係)から来た誰とも目を合わせようとしない。

さらに、自身の一番の承認欲求が生まれる原因であるショパンに楽譜を見られたことに動揺し、自己矛盾が起こってしまう。
リストは本当に今のままで自分を認めている事になるのか、という矛盾だ。
本当に望んでいる自分自身になれているのであれば、ショパンに会ったところで、彼の自己は揺るがないはずだ。
それなのに、彼はショパンから楽譜をひったくる。
リスト・フィレンツという自分のための音楽が、他人から評価を下されて、フランツ・リストのものになることが、彼には恐怖なのだ。

ショパンに会って、リストは、この場面で本当は仮初の自己肯定感の中にいることを改めて理解してしまったといえる。
それでも、現在のマリーの対であるリストという存在意義が揺らいでしまえば、脅かされることのない愛の夢から覚めてしまうだろう。
彼は、マリーとの家という繭の中から、一人で外へと飛び出す。

「ねぇ本当にそれでいいの」

ショパンという才能に「新境地だ」と認められたと同時に、ジョルジュ・サンドという、彼自身の承認欲求ともいえる存在が、フランツ・リストという野心を呼び覚ますように問い詰めはじめる。

「もう終わった人扱いよ」
「敗者のままでいいの」
という揺さぶりは、パリ時代の「どちらが上なのか」や「この中で俺よりも成功している奴はいるか」と他者に対して敗北することに対して、人一倍過敏なリストにとって、強いカンフル剤のような一言だ。

それでも、マリーへの愛を優先するとサンドに誓ったリストは、パリ行きをしぶしぶ承諾する。
そして、マリーに「これで最後だ」と自身の承認欲求(フランツ・リスト)との決別を、自分にも言い聞かせるように宣言する。

ここで彼が決断したのは、己の矛盾を解消するためには、正しいことだったのだとと思う。
なぜなら、リストが本来取り戻すべき自己肯定感とは、マリーが与えてくれるものではなく、自分自身で獲得しなければ得られないものだから。

「聞いたかい!あの歓声だよ」

本来のリストのパリへの帰還は、それを捨てた者が「承認欲求」のくだらなさを証明するためのものだったはずだ。

貴族(伯爵夫人)の道具として、権力によって存在を定義されているタールベルクとの勝負に勝てば、貴族の特権性(芸術家にとって承認欲求を満たす必要のある人たちの利権)がなくなり、平民が貴族と並ぶことができるからだ。

タールベルクとの、象牙の戦い(ピアノ対決)が勝利に近い形で無効にされそうになった時、リストは自身がスイスで作った曲を披露した。
その曲は、貴族たちだけではなく、芸術家たち、ショパンまでをも唸らせる素晴らしい出来だった。
リストは演奏後、大きな喝采につつまれ、パリの人々との間にあった壁を乗り越える。

「巡礼の年」の一曲目「ウィリアム・テルの聖堂」は、作中ではリストの中の自分自身の分身である。

リスト・フィレンツ(自己肯定)のための曲が、過去にフランツ・リスト(承認欲求)を求めていた人たちに認められてしまった。

ありのままの自分(リスト・フィレンツ)の才能が認められるということは、ショパン(犠牲を払っていない天才)と肩を並べることと同じだ。
リストのいう犠牲とは、子供の頃の自分自身を捨てることである。

パリにいた頃のリストがずっと求め続けてきた”ショパンのような才能”を手に入れたリスト・フィレンツは、あんなに恐れていた、フランツ・リストにまた飲み込まれてしまった。

「題して、革命のエチュード」

リストは、ハンガリーで起きた災害のためのチャリティー公演をし、爵位をもらえることになった。
この出来事で、パリの音楽家リストが、ハンガリーの音楽家リストとして認められ、入れ子のように、フランツ・リスト(パリ)の外側にリスト・フィレンツ(ハンガリー)が存在するようになる。(ややこしや〜)
彼本人は、この入子構造に気づいていないので「自分(リスト・フィレンツ)が認められた!」と有頂天である。

マリーは、そんな喜びの手紙を読んで嘆く。
お互いが変わってしまったことを悲しみながらも、スイスでの日々を追って二回目の革命へと進む。
彼女は"自分には何もない"と思っているからこそ、現状を壊し、新しい居場所を"作り出そう"とする革命へと突き進むことができる。
リストには、"音楽の才能"があるからこそ、今の場所を捨てきれない。居場所は作り出すものではなく、"到達"するものだからである。

数々の演奏依頼を受けたリストは、ショパンの曲に題名をつけて貴族たちの前で披露する。
「革命のエチュード」は実際にショパンからリストに贈られた練習曲のひとつだ。作中には登場しないが、ショパン本人は曲に題名をつけるのを嫌がった(音楽以外の情報で印象を操作したくなかったらしい)というエピソードがあるらしい。(リストが本当に名付けた一曲とのこと)

…本来の史実がどうだったかどうかは置いておいて。
リストは、ショパンの才能でさえ、自分を人に認めさせるための道具として使う。並び立つリスト・フィレンツ(本当の自分自身)の才能も、同じように、フランツ・リスト(承認欲求)が利用しているからである。

他者との比較でしか自分を肯定することができないリストは、評価基準が定まらず、いつまでたっても揺れ動いている。
貴族の中で高笑いしていても、いつまでも到達しえない場所(他人に指標を置いているので自分では目標が定まらない)を目指すことに疲弊しはしめた頃、革命が起こる。

自分の存在意義を自分で作り上げたマリーと、到達点という居場所が壊された自分の世界の中で出会うリスト。
リストの魂は、他人が居場所をどうやって作っているのか、理解できずに彷徨い続ける。

「これはあなたの物語よ」

リストが森の中で放浪していると、サンドが現れ、弱り切ったショパンの元に連れていかれる。

ショパンは、リストにとっての第一の比較対象だ。
彼の背中を追ってきたリストにとって、自分の才能や存在価値の証明には、ショパンという絶対的天才の基準値が必要なのである。

ショパンが死ぬという言葉に怒りながらも、きっとリストはどこかで安心したはずだ。リストは、天才のショパンを追い続けることで、それが自分の存在理由になるから。
本当の届かぬ星になってしまえば、それを追うことで自身に変わらぬ生きる理由が存在する。ほかに余計なことを考えなくて済むのである。

しかし、そんなリストにショパンは一喝し、生き方を他人に委ねることの無意味さを、静かに告げる。
そして「何のために音楽を?」と自分で存在意義を考えることを促す。


あの場面。
事実とは異なる空想の空間だということは、劇を見るだけでもわかることだが、本当のショパンが亡くなる頃、リストとショパンは険悪になっていて、彼らが会うことはなかったらしい。

だからこそ、あれは、「巡礼の年」という音楽作品の中で、ふたりの美しい邂逅として描かれている。

リストの魂にとって、ショパンとはどのような存在だったのか、どのようなことを教えてくれたのか。
生きているリストが、彼自身の中でのショパンの存在意義、ショパンの死の意味を考えている(と生田さんが思った)からこそ、リストの中で、ふたりは対峙することができる。

そして、リストを、ショパンの元に連れていくのはサンドである。
本来はショパンの死に目には会えていないサンドだが、この作品の彼女はリストの中のサンドなので、彼の中でサンドとショパンは紐付けされている。

リストの中にいるジョルジュ・サンドは、承認欲求という情熱だ。

情熱(サンド)が橋渡しをして、自己を肯定してくれる才能(ショパン)に対峙することで、やっとリスト自身(捨ててしまった子供の頃の自分)の本当の「何のために音楽を」するのかという理由を見つけることができる。

そして、それを見つけた時、ようやくリストは何よりも求めていた自己肯定感を、そしてリスト自身の物語を手に入れることができるのだ。

「人生、後悔だらけだ!」

教会に、ダニエル・ステルンがやってくる。
子供達は「リスト」という名前を知らないまま、リストに音楽を習っている。
「ただのマリーとフランツ」「姫とじいやだった」だった頃よりも、もっとフラットなお互いで、リストとマリーは邂逅する。

マリーは
「どうしてあんな無邪気だったのか、不思議ね」
と言う。

リストは
「生きるのに、必死だったんだ」
と言う。

この短い時間で、お互いが違う人間で、違う考えを持った二人であり、お互いに求め合っていたけれども、その種類が違っていた、ということを素直に告げることができる。

相手への欲望(自分の思うようになってほしい感情)をぶつけあうのが恋だとするなら、スイス時代の二人のようなラブストーリーにふさわしい恋愛をしている恋人同士として終わる方が気持ちがいいのかもしれない。

それでも、価値観の相違から道を違えてしまった相手と、言葉を交わして穏やかにわかり合おうとすることも、愛の種類のうちのひとつではないだろうか。

リストとマリーが愛の夢に思いを巡らせる中、本舞台ではリストのいままでの人生が展開していく。
後悔ばかりの人生も、「すべてが愛おしいめぐる季節」なのだ。

ふたりは、人生を振り返るように、スイスの景色を目指して歩いていく。

「私たちの人生は、巡り続けるのだから」

そこそこ長い物語を、どのように締めくくるか…というのはなかなか難しい問題です。
プロアマチュアに関わらず、いろんな人が描いたストーリーの「余韻」というものは、それぞれ個性が出る場所だと思うのですが、これをうまくまとめるのがプロの技の見せ所…なのかもしれない。

結論からいうと、この「巡礼の年」の終わり方…わたしはとてもとても大好きです!

「私たちの人生は、巡り続けるのだから」という一言が終幕直前に入ることによって、あぁ、これは「巡礼の年」という音楽作品の中身(概念)を描いた話なんだなぁ、と最初に見た時に思いました。
(たしかムラ公演3日目とかの出来事である/我慢できなすぎて行った)

物語の最後、スイスの光景に向かっていく二人は、きっと「巡礼の年 第一年:スイス」の第1曲「ウィリアム・テルの聖堂」の鳴る、冒頭シーンへと戻っていくんじゃなかろうか。

この感想の頭のあたりでも言いましたが、「巡礼の年」という作品はリストの人生の縮図のような作品集。
メインテーマの、巡礼の日々(愛の夢)というタイトルが、「巡礼の年」自体が愛の「夢の中」にある作品であることを示しているような気がしています。

恋愛的なラブストーリーという意味ではなくて、自分の人生を肯定して愛するという意味でのラブストーリーといいましょうか。
登場人物たちは、いつだって、リスト(実在)の「巡礼の年」の中で生きて巡っていると思うと、なんだか胸が熱くなります。
それと同時に、本物のリストの想いも、作品の中に永遠に生き続けていくのではないでしょうか。
音楽は永遠に生きるのだ、とショパンも言っているように。

自分自身の感情的な共感はというと…
ほんともう矮小ながら自分もリストの汚いいろんな感情(人気なところはまったく違うけど)に共感しすぎて、何度も見ている間に頭がめちゃくちゃになって割れそうになったりしたのですが笑
そういう汚いところも人間らしいなぁ、というところを肯定してくれていて、この作品がとても好きだな、と思ったんです。

存在意義は見つけるものではなく、いる場所を認めること、そしてその場所で自分らしく居れるように努力する事だと言われてるようで。

生きていて後悔ばかりなのは、リストに限らず、わたしに限らず、きっとどの人もそうなんじゃないかなぁ、と思います。
それでも、こういう不確定な時代において、いいことも悪いことも、人生として認めていくという事に、とても勇気づけられました。

退団された、若草さんもおっしゃられていたように。
素人の想像力の範疇でですが、この作品を宝塚というシステムの中で作り上げるのは、感情的にもどの立場の方もなかなかに苦しい演目だったんじゃないかなぁ、と感じました。
それに加えて、長い期間の公演中止。きつくないわけがないです。

だからこそ、花組のみなさん、本当におつかれさまでした。
そして、その努力ぶんの素敵な愛の夢を見せてくださって、ありがとうございました。

誰が欠けても、きっとあのわたしが心揺さぶられた舞台はなかったのだと思っています。(休演になってしまった方の想いも含めて)
だからこそ、あえてスターさんの名前をほぼ出さずに感想を書きました。

わたしは、公演にかかわったすべてのみなさんが大好きです。
いつもいつも元気をありがとう。

また次の幕が上がるのを、楽しみに待っています。
いちファンより愛をこめて。

おわり


PS.
ブルーレイは注文したけどちゃんと仕事が終わるまで封印している(これは仕事の休憩時間に書きました!信じて!笑)ので、すべて記憶のままに書いております😂何か間違いがあったらご勘弁ください!

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