Twitterの閲覧数が制限された時、私は人間がすきではないのだと気付いた。
深夜、何気なくTwitter(現X)を開くと『現在ツイートを取得できません』と表示された。何度更新しても、最新のツイートが読み込めない。
別にそれ自体はよくあることだ。
イーロン・マスク氏がTwitter社を買収してからというもの、予告なしのアップデートやエラーなどは日常茶飯事だ。
個別にリストへ振り分けている親しい人たちの呟きを覗きに行くと、皆が私と同じように戸惑いながらも『寝るか』と淡白な判断で眠りにつこうとしていた。私もスマホをそっと閉じてベッドへ向かう。
いつものように、明日には不具合が解消されているだろうと思いながら、私も眠りについた。
閲覧制限祭。タイムラインは阿鼻叫喚の図だった。
翌朝、Twitter(現X)は阿鼻叫喚だった。
凍結祭りも記憶にまだ新しいかったが、タイムラインやトレンドの荒れようはその比ではなかった。
『ツイッター不具合』
『イーロンマスク終わってる』
『ツイッターサ終』
トレンドが大きなうねりで踊っている。
「昨日未明、全世界から空気が消失しました」
そう宣告されたかのように誰も彼もが荒れ狂っていた。
私も焦りはした。
趣味とはいえVTuber活動をしている身にとって一番の発信場所がまともに機能しないのは死活問題だ。
それを考慮しないとしても、私はそれなりにツイ廃である。10秒ごとに更新を掛けてもタイムラインはうんともすんとも言わない。
更新されないのであれば仕方がない。
壁に向かって恨み言を吐くのも面倒だと感じそっとスマホをテーブルへ置き、私は洗濯機を回すところから家事を始めた。
一通り片付きソファに腰を下ろした頃、私は「別にTwitter(現X)がなくても何の問題もなく生きていけるなぁ」と気が付いた。
それは、水に落とされて初めて『あら私、水中でも呼吸ができる種族だったみたい』と気付いたような感覚だった。
頭の中から靄が晴れていく。
私は、それに居心地の良さを覚えてしまった。
どうやら私は、あまり人間がすきではないらしい。
4,000人以上もフォローしていると、4,000通りの思想や呟きが、嫌でも目に入る。
SNSが普及する前は物理的に知りえなかった数の人生がいとも簡単に見れてしまっているこの現状は、冷静に考えて異常だ。
私はSNSを始める前よりも、今の方が“人間嫌い”が進んでいることに気付いてしまった。
もちろん、直接お会いしたりSNS上で何度もお話している方のことは好意的に思っている。この場合の“人間”とは、勝手なオススメ等で目に入ってしまう呟きを意味する。
『無料でも使い勝手が悪かったら意味ない』
『課金で解消なんて馬鹿げている』
『Twitterは終わるので私が登録してる新しいSNSをお勧めします! 是非登録してね』
『イーロン・マスクはユーザーのことを何も考えていない』
四千者が四千様に言葉の濁流を作り出す。
一度呼吸が出来てしまったからこそ、これまではスルーできていたそれらの言葉が直接私の心に殴りかかってきた。
頭の中では【鋼の錬金術師】のキンブリーが『怨嗟の声など! 私にとっては子守唄に等しい!!』とニヤニヤ笑っている。
ごめんキンブリー。
俺はどうやらそこまで強くないらしい。
人間は見えすぎてはいけないのかもしれない。
福沢諭吉は著書【学問のすゝめ】の最後をこう締め括っている。
『人にして人を毛嫌いするなかれ』
彼が現代に生きて、この閲覧制限の荒れ具合を経験していたら、この結びは変わっていただろうか。
彼が生きていた頃は、見える人の数に限りがあった。だからそう言えたのではないだろうか。
そう思いはするけれど、別に彼が言いたいことを理解できない訳ではない。
確かに、人間の分際で人間を嫌うとは、何とも偉そうでおこがましい。
そういえば彼は冒頭で『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と言っていた。
ごめん。先に末尾から思いだして。
私が人間を嫌いになった原因は、間違いなくSNSにある。
本来は出会わなかった、交差しなかった人達が私のテリトリーを無理やりこじ開けて「FF外から失礼します!」と突撃してくるのは異常だ。
わたしはそれに慣れすぎて「ネットなど、SNSなどそんなものだろう」と何処か諦めてしまっていたのかもしれない。
たとえ水中で息ができても、肺呼吸の私たちは、地上の方が息苦しくないに決まっているのだ。
そんな気付きを与えたくれたイーロン・マスク氏に私は感謝しながら、制限が緩和されたTwitterをそっと閉じたのだった。
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