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好きだということ。


好きすぎて切ないということが、よくある。


あ、その、恋愛に限った話ではない。 

「好き」にはいろいろな感情がミックスされていると思うのだ。


単純な好きという感情に加えて、自分がそれをしたりつくったり、それに近づいたり「できる」という便宜、ポテンシャルといった所謂「力」。

反対に、浮き彫りになる「それ」との距離、限りなく近づくことはできても、独り占めできないこと、ましてや自分自身が「それ」じゃないこと、「それ」になることはできないことによるやるせなさ、悲観、嫉妬。自分の場合こういう感情が所謂、「切なさ」に匹敵するものらしい。


好きすぎて切ない。いや、ただのメンヘラやん。


文字にするとやかましくイタい奴だが、実際、好きすぎて切ないのだから仕方ない。

会いたくて震える、とかそういうのではない。多分、会うのは応急手当みたいなものだと思う。当面の処置。(「会う」と言ってるが、人に限らず、なんでも。)


話は戻るが、そのやるせなさ、切なさによって、私の場合、自分自身を顧みるのだ。

自分は、「それ」のような良いものを生み出しているか?「それ」のように何かを貫いているか?「それ」のようにやりたいことを実現しているか?云々。


それは例えば、カフェのあのゆったりした空間、とか。

コーヒーの香りと、程よいボリュームのジャズと、うるさくもなく静かすぎることもない、客の話し声。ちょっと大人になった気にさせるあの気高くて心地よい空間。

そんな空間が好きで、そんな空間みたいなものをつくりたくて、実現したくて、そんな空間のような人になりたい、みたいなことを思うのだ。


例えば、あのユーチューバーの番組の感じ、あの芸人のコントの笑いどころ、あの料理のスパイスの味、ビリヤードの球がはじけるあの瞬間、ブックカフェに漂う本とコーヒーとブラックペッパーのブレンドされた香り、あの人のやさしさ、言葉のチョイス。


のようなものをつくりたい、のような人になりたい。


聞こえは変な感じだが、そういうことなんだと思う。

でも飽くまでもそれは「のような」もので、それに「寄せた」ものではない。どんなものかっていう抽象的、感覚的なイメージを持ちつつ、自力で考えて、つくる。形にする。なりたい人に、なる。自分の力で作り出すか出さないかで、人に伝わる度合いが変わってくると思う。


まだまだ難しいが、目標は、自分自身を好きになること。

そのために、憧れを常に持つこと、好きなものの中に常にいること、執着心と自信を持つことを絶対に忘れたくないと思う、今日この頃だ。

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