初めての生徒指導

自分は剣道部に入っていた。部活熱心な生徒という訳ではなかった。そもそも剣道は痛いし汗臭いし、夏は暑いし冬は寒い。体は痣だらけで足の皮は大きくめくれ上がっていた。しかも、自分の学区には2つの町道場があり、出身の同級生が6人くらいいて、中学から始めた自分たちはその差を埋められずにいた。勝てないのは面白くない。武道にそんなことを言っちゃ悪いかも知れないが、1回も勝てていない競技を続ける人間などどこにもいないのだ。

そんな部活だったので自分はサボり魔だった。顧問は社会科のおじいちゃん先生。この先生、学校大嫌い芸人で欠席可能日数ギリギリを常に攻めていた自分より欠勤が多かった。心の病である。そんな先生に部活指導が務まるはずもなく、外部コーチを週末に雇い、平日は生徒主導、たまに剣道歴のあるバスケ部の顧問が見に来る程度で、部活を休むのも正直やりやすかった。

2年生に上がった頃、新しく顧問の先生が増えた。A先生という新任の先生だった。国語科の女性教諭はメガネかけた黒髪ストレートの大人しそうな巨乳、という自分の偏見は置いておいて、とてもやる気があって、活発な、短髪貧乳だった。メガネはかけていた。山形出身、山形大学を出て大都会仙台、東北のニューヨークにやってきたその先生は残念ながらスラム街に位置する我が母校に配属になってしまった。特段部活として荒れていた訳では無い剣道部に鬱で休みがちな先生と新卒を組ませる、貧乏くじを引かされたわけだ。とはいえ、新卒でやる気があったA先生は剣道部を改革し始めた。技術的な面は外部コーチに任せ、体力トレーニングや日誌、ソフト面を中心に色々やってくれていた。この日誌が後に火種となる。

日誌は当番制でその日は自分が当番だった。日暮れだったのでおそらく冬、部活終わりに武道場でその日のメニューや反省点なんかを書いて、ファイルに挟み、鍵と一緒に職員室に返せば終わりだ。その日、自分は暴言を書き連ねた。
「練習メニュー:うるせぇ知らねぇ」「反省点:バカ、アホ」みたいな感じだったと思う。
当時、クローズくらい荒れてた学校で特に荒れもせず、学業もそこそこ優秀で特に生徒指導に引っかかったこともない落ち着いた生徒だった自分。同窓会で会った当時の担任は俺の名前を思い出せなかったので、それくらい特筆すべき人間ではなかったのだ。なぜそのような眉目秀麗成績優秀天声人語国士無双な自分がそんなことをしたのか、仲間内のノリだったのか、ストレスだったのか、はたまた落ち着いていたと思っていたのは自分だけだったのかは今となっては分からない。

次の日の昼休み、部長のS君からA先生が呼んでいると言われる。この時の自分はなぜ呼び出されたのかわかっていなかった。というより日誌にそんなことを書いたのも忘れていた。職員室に行く。入った瞬間A先生と目が合う。

「あっ、やべぇ。」

直感的にそう思った。目が笑っていない。当時の自分が170cmくらいで先生は女性としても小柄な方だったが出会い頭に胸ぐらを掴まれてそのまま壁に押し付けられた。
「どういうことだ?」低い声だった。ちょうど予鈴がなる。

「話があるから放課後、生徒指導室に来い。」そう言われ開放された。

放課後、初めて生徒指導室に入る。程なくして先生が入ってくる。日誌を持っている。全部思い出した。対面で座った先生が日誌を見せる。ビリビリに破かれていた。自分は破いていない。朝、日誌を確認した先生が怒りに任せて破いたらしい。1枚に2日分かけるようになっていたので隣のページに書いてあった一昨日の日誌もぐちゃぐちゃになっていた。S君が書いたやつだった。ごめんS君。

正直、指導の内容は覚えていないが、その時は上述の外部コーチから教わったことを思い出していた。

「怒られている時は言い訳をするな。非を認めて、すみません、とだけ言っておけ。そうすればすぐに終わる。ただ、反省だけはしろ。」

この言葉を思い出しながら、思い出しはしたものの、謝りはしなかった。なんか謝ったら負けみたいな変なプライドを持っていた。14歳なので。反論の余地はないので、ムスッとして、聞いていたと思う。

結構な時間怒られた。A先生は泣いていた。泣かれると困ってしまう。14歳なので。おそらく、A先生にとっても初めての生徒指導だったと思う。その指導内容は残念ながら自分の胸には残っていないが、そのエピソードは今も側頭葉に残っている。それ以降は変なプライドを捨て、適当なところで謝るようになった。あんなに拘束されるのはもう懲り懲りだ。もう10年経つ。A先生は今もどこかで教壇に立っているのか、はたまた家庭を持っているのか。会いたいとは思わないけど元気でいて欲しいとは思う。

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