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お別れのあいさつはいらないけれども

「知り合ってから、辛い時間の方が多かったけれども、楽しい時間に感謝します。
おつき合いしているわけではないから、お別れのあいさつはいらないですね。
短い間でしたが、ありがとうございました」


限界だった。
彼が何を考えているのか、わからなかったから。
セックスがしたいだけなら、わざわざ片道3時間かけてこないだろう。
まりかは、とくにテクニシャンでもないし、美しいプロポーションの持ち主ではないから。


でも、せっかくふたりで旅に出ても、夕食後のひとときをタカシはバラエティ番組をためらわずにスイッチを入れた。
ほとんどテレビを見ないまりかが、ことさら避けているバラエティ番組を、である。
出かけても、手をつなぐわけでもない。
セックスも、味気ない愛撫と、十分な大きさとは思えないお持ち物で、さささとなさるだけ。


「どうして好きともつき合おうとも言ってくれないの?」と、たずねると、「じゃああれか、嫌いでつき合っていないとでも言えばいいのか」と、照れたように言う。
いろいろ材料を集めれば集めるほど、タカシはまりかのことが好きでもないし、つき合っているとも思っていない、という結論にたどりついた。


私たちは、おたがいが生きてきた人生について、ほとんど知らない。
これは私も望むことで、これまでの生き方を材料にその殿方を評価したいとは思わないから。
まりかとて、聞いた人がすばらしいと思う人生を歩んできていないし、離婚を二度もして、メンタルを病んで、介護離職してパート勤めという経歴を聞いたら、遠慮したいと思う殿方とて少なくないだろう。
もちろん、まりかはまりかの生き方を愛しているし、それを尊重して一緒に歩んでくれる殿方とめぐりあいたい。
そう、高校受験でいえば、内申書や受験勉強で稼いだ点数より、当日の面接や小論文でお相手を感じ取りたい。


そう、自分をさらけ出すには時間が必要だ。
そのタイミングは人にもよるだろうけど、まりかはある程度、親密になってから、少しずつ伝え合ってゆけたらよいなと思っている。


しかし、である。
まりかのことが好きでもないし、つき合ってもいないと思っているであろうタカシが自分のことを語ってくれないのは、引き算の要素でしかない。
ついには、実は既婚者なのではないか、というところまで尾鰭背鰭がついた。
人間、一度信じることを手放すと、感情は雪だるまのように不信感を巻き込みながら、どんどん大きくなるものである。


もう終わりにしたい。
タカシのことを考えるだけで、辛くなった。
まりかのことが好きでもないのに、なぜ出勤前に必ず、おはようとLINEを送ってくるのか。
反対に、なぜ仕事が休みの日には送ってこないのか。
人の気持ちを探るほど、無駄なことがない。
だって、その人の気持ちは本人にしかわからないし、ときには本人だってわからないこともあるのだから。


もう終わりにしよう。
会ってじかにお話して伝えようと思ったが、つき合ってもいないのだから、わざわざ時間を取ってもらうほどのことでもあるまい。
LINEで十分だろう。
できるだけシンプルに、でも返信がしたくならないような文面を、何日もかけて考えた。
まりかが送って送りっぱなしになるような、でも失礼になりすぎないような文面を、推敲を重ねながら考えた。
そして、ふだん、なかなかLINEの返信のこない日曜の午後を狙って、わざわざ紙飛行機ボタンを押した。


ところがである。
1時間もしないうちに、iPhoneのディスプレイには、タカシのアイコンが浮かび上がったではないか。
既読がつかないように、長押しして内容を確認する。


「まりかの思うような付き合い方ができてなくて、申し訳ないと思っている。
ごめんね。
まりかの家の門灯の電球交換する約束はまだ果たせていないから、手伝いに行こうとは思っているけど、もう迷惑かな」


驚いたことに、タカシのLINEは、過去形ではなくて、現在形だった。
どうせ返事はないだろう、あっても忙しいんだから仕方ないだろうと逆ギレするだけだろうと思っていた。
でも、彼は、現在形でまりかに謝り、約束を気にかけてくれている。
申し訳なかった、ではなくて、申し訳ないと思っている、だし、何度たずねてもいつとは言ってくれなかった電球交換の話も覚えている。
ますます、まりかはタカシの考えていることがわからなくなった。



しばらく考えてみて、わかった。
まりかは、結果が嫌だったわけではない。
タカシがなぜそう考えたのか、プロセスが見えなかったのが辛いのだ。


会えないことが辛いわけではない。
約束を守ってくれないことが悲しいわけではない。
なぜそうなるのか、その理由が知りたかった。
彼が考えていること、置かれている状況がわからないことが辛く、悲しいのだ。


年度末で連日、深夜まで仕事が終わらないとか、仕事が忙しくて還暦間近な体に堪えて土日は動けないとか、ひとこと伝えてほしかった。
ごめんねが必要なのは、いまではない。
まりかが平静を装いながら、不機嫌をぶつけたときだったのに。
不器用だと言い訳をするけれども、ほどがある。


それにしても、彼がいうまりかの思うようなつき合い方、って、彼はどう思っているのだろうか。
自分がまりかの気持ちに寄り添っていないと思っているのだろうか。
電球交換に来てほしくはないが、彼に問いたくなった。
やっぱり、会って話がしたくなった。
こうしてめぐり合って、カラダを重ねるほどの関係になったのは、何かの縁があるのだろうから。
もしかしたら、彼が瞳をきらきらさせながら、自分の世界を語る顔を、また見ることができるかもしれない。
まりかが一目で恋に落ちた、あの顔を。


ああ、まりかのバカバカ。
どうしてこうやってよけいなことを思いつくのだろう。
このまま返信をしなければ、この苦しさから解放されるのに。


「一度、お会いしてお話しますか」

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