幸せになる資格

「トオルさんの姪御さんのさくらさんですか。
担当看護師のクラモチと申します。
伯父さま、夕べから呼吸状態が悪化しています。
いまは、酸素吸入をマックスの10リットルになりました。
午後、面会の予約が入っていますが、念のためご連絡しました」


子どものいない伯父夫婦の面倒を見るようになって、早や3年。
2年前に低栄養で倒れ、救急搬送されてから、入院、退院、入所に転院と、10か所ほど移動させた。
都度、次の施設を探したのも、ケアマネジャーや相談員と調整したのも、大量の契約書類を記入したのも、このまりかだ。
先月、看取りまでしてくれる療養型病床のある病院に入院させて、やれやれと思ったところだった。

3週間前に伯父の病院から連絡をもらったのも、祝日だった。
あのときも、主治医のおじいちゃん先生は、今日にも明日にもと言っていたっけ。
身内に連絡をして、その後のこと、つまり葬儀の段取りなども考えておくようにと告げる表情は、宗教画のようにおだやかだった。
この病棟では、生きることと同じくらい、死ぬことが日常なのだろう。
まりかの目の前に死がやってくるのは、ちょうど30年前、妹のマユミが自ら命を絶って以来のことだ。


「最悪だ」
「お父さん、どういうこと?」
「自殺だ」

30年前、アルバイトから帰らないマユミをひと晩中、両親と探し回り、ようやくまどろみかけたころに、警察がわが家の電話機を鳴らした。
ようやく見つかったと、喜び勇んで隣の隣の市の警察署に向かった両親が通されたのは、霊安室だった。

両親が溺愛した4歳下のマユミは、姉であるまりかから見ても美しく、ねたみを通り越して、あこがれの気持ちすら抱いていた。
高校の文化祭に遊びにきたマユミを見て、まりかが片想いしていたアキラは、「さくらの妹、すごい美人だな」と、言った。
ああ、まりかは絶対にマユミには勝てないのだ、と、悟った。
それでもいいと思った。
だって、マユミはまりかの最愛の妹だから。
マユミはまりかの自慢の妹だから。

自宅に運び込まれた棺に泣き崩れる母、ことばを発せず憔悴しきった父。
葬儀社の人たちがあわただしく歩き回り、わが家の子機を使って大きな声であちこちに電話をするのを、まりかはぼんやり眺めていた。
この日からまりかは、「最愛の娘を亡くした夫婦の子ども」となった。

なぜまりかが生き残ってしまったのだろう。
マユミが生きていたら、と思わない日はないし、彼女がいたら、両親はもっと愛情を持って介護されていたと、自信を持って言うことができる。


ごめんね、お姉ちゃん、やっぱりお父さんとお母さんには優しくなれないや。


あれから30年、まりかは図々しく生き延びて、母に続き、やがては父をもこの家から追い出して、人生を謳歌しようとしている。


まりかは、幸せになってもよいのだろうか。
命の火が燃え尽きようとしようとしている伯父の手を握りながら、まりかは苦悶した。



いや、まりかは幸せになるのだ。
生きとし生けるものすべて、幸せになる資格を等しく持っている。
たとえまりかが妹の命を蹴落とし、両親を冷たくあしらいながら生きながらえようとも、幸せになる資格はあるに違いない。
いや、まりかには幸せになる資格があるのだ。


トオル伯父のベッドサイドでスリープを解除したiPhoneの画面には、マッチングアプリへの着信履歴を示す赤い丸囲みの数字が踊っていた。
夕べ眠剤が効いてからメッセージをもらって返信しそびれている、殿方からだろうか。
新しい足跡だろうか。
アプリの向こう側にいる殿方ひとりひとりも、等しく幸せになる資格を持っている。
身長や年齢、年収や顔写真で評価を加えるうちに、そこに血が通っていることを忘れかけてはいないか。


「まりかさん、飲みに行きましょう!」
「ごめんなさい、いま、伯父の具合が悪いんです。
落ち着くまで待ってくださいますか」
「大変なときに、お返事を求めてごめんなさい〜」

アプリのメッセージ画面に光る「〜」のひと文字に、無性に腹が立った。
まりかにとっては血を分けた肉親の生き死にに関わることも、彼にとってはデートを妨げる要因でしかない。
別に、彼が悪いわけではない。
現実はそういうものだ。
だって、身内にとっての命の重さが、他人のそれと同じわけがないから。


「失礼します。姪御さん、いかがですか。
何かあったら、夜中でも何でも連絡しますから、電話だけはつながるようにしておいてください」

病室のカーテンを開けたクラモチさんのことばに、まりかはとうに面会時間をすぎていることに気がついた。

「わかりました。引き続き、伯父をどうぞよろしくお願いいたします」

深々と頭を下げたまりかを、クラモチさんはエレベーターホールまで見送ってくれた。
この病院、建物は昭和の匂いがぷんぷんするお世辞にも豪華とはいえないつくりだが、スタッフの心のこもった対応には、いつもほっとする。


まりかが温かいトオル伯父の手を握ることは、もうないだろう。
次にこの病院に来るときは、伯父の心臓が88年の仕事を終えたときとなることだろう。
病院の自動ドアが閉まる音を聞きながら、まりかは伯父とすごした3年間を思った。



トオル伯父ちゃん、豊かな時間をありがとう。
この先のことは心配しないでね。
伯父ちゃんが大好きなまりかが、万事取り仕切るから。


11月の下旬とは思えない暖かな日差しをたっぷり浴びて、午後3時近くなっても車の中は汗ばむほどだった。
駐車場の木々はすっかり葉を散らし、季節はずれの太陽をうらめしそうににらんでいた。


まりかよ、幸せになるのよ。
マユミもトオル伯父も、それを望んでいるに違いないのだから。

幸せになる資格。
生きることも死ぬことも、大仕事である。

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