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ありがとうが似合う別れになるように

「最初に私、言ったよね。
相手に合わせすぎちゃって、黙って我慢して、突然、爆発しちゃう」
「ごめん、何か違うなって思っていた。ごめん」
「もう終わっているから。私の中では終わっているから、大丈夫」


まりかはひと息で言い切ると、左隣のタカシをちらりと見た。
タカシは泣いていた。
左の手の指を目頭にぎゅっと当て、じっと空を仰いだ。
金曜夕刻の東京駅丸の内駅前広場。
目抜通りの街路樹と、レンガ作りの駅舎、それから無機質なビルたちに囲まれた空には雲ひとつなく、ただただ青かった。


ああ、この人はこの人なりにまりかを愛してくれていたのだ。
そう思ったら、このふた月、悩み苦しみ尽くした気持ちがするりとほどけた。



まりかがタカシを選択しない選択をしたのは、およそ2週間前の日曜日だった。
てっきりタカシの気持ちはもう冷め切っていて、まりかの顔など見たくないだろうから、このまま終わりにしようと思っていたのに、タカシからは会いにゆきたい、と、返事が来た。
別れようと決めた殿方を、自宅に上げたくはないから、ふたりの予定の合った金曜の午後、会うことにした。
待ち合わせたのは、おたがい出やすい東京駅。
クラシカルな丸の内中央口にしたら、彼は来たことがなかったようで、地下中央口に行ってしまったらしい。
3分ほど遅れて、めずらしくにこにこして大きく手を振りながら近づいてきた。
まるで、まりかが別れ話を切り出したLINEなど、まったく読んでいないかのように。


最初に入った新丸ビルのカフェでは、マッチングアプリで初対面の男女か、出張帰りに仕方なくお茶を飲むことになった上司部下のような、親しみを持とうとしているのに距離のある、不思議な空気が漂っていた。
まりかは口を開こうとせず、ひたすらタカシが話題を探す。
こんなこと、初めてだ。
仕事のこと、連休の予定、おたがいのネコや犬のこと。
タカシはここで初めて、自分の息子の写真を見せてくれた。
大学生になったのに、身なりに気をつけなくて困る、と。
あんなに自分のことは語ろうとしなかったのに、突然、どうしたのだろう。


まりかはにこにこ相槌を打ちながら、タカシのアイスコーヒーのグラスをながめていた。
まりかは自分のカフェラテはとうの昔に飲み終え、彼が飲み干したタイミングでこの3か月間の感謝を伝えて、ひと足先に店を出ようとすら思っていた。
徐々に身を細らせてゆくグラスの氷とは対照的に、ミルクをたっぷり入れたタカシのコーヒーはなかなか減らない。
あと2センチほどになったとき、彼は外でも歩くか、と、まりかの目を見て言った。
まだ大事なことを伝えていない、言えていない。
怒られて、言い訳をする子どものような目だった。
一瞬、戸惑ったが、断る理由はない。
伝票を持ったタカシを追うように、まりかはネコ柄のバッグを持って立ち上がった。
彼と最初に会った日も、このバッグだった。


新丸ビルを出て、東京駅のレンガが見えてきたところで、タカシに促されてベンチに腰を下ろした。
春らしい強い風が、早く帰れと促すように吹きつけた。


「いろいろ期待に応えられなくて、悪かったと思ってる」


そんなことない、と言いかけると、嗚咽がまりかの邪魔をした。
瞼の裏には熱いものが込み上げてきて、鼻がつんとした。
唇をぎゅっと噛んだが、手遅れだった。
お堀からの風が、まりかの涙を駅舎に向かってびゅんと飛ばした。


「恋愛って、面倒なことを面倒だって思わないことだ、って、どこかで聞いたことがある。
俺は、片道3時間近くかけてまりかの家に行くことも、毎朝、LINEすることもしたいからやっていた。
先月だって、会いたかったから、まりかがただ心配だったから、会いに行った」


まりかは、黙ってうなずくのがやっとだった。


「最初に会ったとき、まりかになら本心をさらけ出してもいい、と思った。
次に観音埼灯台に行ったときも、まりかのまちに行ったときも、楽しかった。
河津桜の旅行もね。旅行、本当に楽しかったよ」


あの旅をタカシは楽しんでくれていたのだ、と、聞いて、まりかは心から救われた。
あの日、会社にリモート勤務とした手前、電車内でも宿でもずっとノートPCに向かい、web会議が終わると迷わずバラエティ番組を観始めたタカシは、まりかに退屈しているのだと、いまこの瞬間まで思い込んでいたのだ。
次の朝、冷たい雨の降る河津桜だって、手をつなごうともせずにひとりで歩く後ろ姿を見てあんなに惨めな気持ちになっていたのは、すべてまりかの思いすごしだったのだ。


「タカシ、テレビばっか見てたくせに」


彼はただ笑った。
まりかを苦しめていたことが、またひとつ解決した。


「俺、ひとつのこと始めると、ほかのことができなくなるから。
LINEも、俺が返信する前にまりかから矢継ぎ早に送られてくると、正直、しんどかった。
必ずしも1通交代にというわけでもないけどさ。
わかってくれよ、ほっといてくれよって、悪気じゃなくて思った」
「ほっといて、って、言ってくれればよかったのよ」
「俺、そんなことだれにも言ったことなかったな。
言えないよ。それが俺という人間だし。
それがいままで、うまくいかなかった原因だったかもしれない」


まりかはわかっていた。
問題はLINEのタイミングだけではなかったことを。
まりかが、自分の世界を瞳をきらきらさせながら話し続けるタカシに恋したように、きっとタカシもまりかのどこかを好きになってくれたに違いない。
「である」タカシと、「である」まりかが恋に落ちても、「する」ことにならなければ、うまくはゆかないのだ。
タカシは、本当はまりかとやり直したくて、今日、会う時間を作ったのかもしれない、と、タカシの涙を見ながらまりかは思った。


「まりかは、俺と出会ってよかったのかな。
俺から声かけたから、俺はもちろん会えてよかったけど」
「ありがとう。よかったに決まってるじゃない」
「ありがとう。それならよかった」

縁あって出会って、おたがい恋に落ちても、うまくゆかないことがある。
努力で超えられるものもあるけれども、おたがいの幸せのために、一緒にいないことを選択した方がよいことだってある。
好きなだけでは、恋はできない。
惹かれ合うだけでは、愛し合えない。
でも、一緒にいないことを選んだからといって、憎み合っているわけではないし、出会えたことに感謝することだってできる。
彼との3か月間、思い悩むことばかりで辛い時間が多いと思っていたけれども、実はたくさんのことを学ぶことができた、と、まりかは気づいた。


今日の会う約束をタカシからキャンセルしてくれれば、と、正直思ったけれども、この時間を本当に必要としていたのは、彼の方だったかもしれない。
いえ、こうやって彼が文字でも電波でも伝えられなかった本当の気持ちを聞くことができたから、伝え合って分かり合えたから、前に進むことができる。
タカシもまりかも。


「じゃ、俺、あっちから帰るから」
「ありがとう」
「ありがとう」


右手を差し出そうとしたタカシに、まりかは大きく手を回した。
勤め人の帰宅時間の少し前、東京駅丸の内中央口をバックに、ふたりは固く抱き合った。
4月の日差しは暖かだったけれども、風にさらされたふたりのほほは冷たかった。
タカシが改めて差し出した右手を、しっかりと握る。
ああ、初めて会った日も、こうやって改札口で別れたな、と、思いながら。


まりかは2度、大きく振り返ったけれども、タカシは振り返ることはなかった。
少なくとも、同じタイミングでは。


タカシ、楽しい時間をありがとう。
まりかは、流れる涙を拭かず、改札口を通り抜けた。
新しい人生のスタートだ。



ありがとうが似合う別れになるように春風よ吹け涙を飛ばせ



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