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自分を理解する【鏡】【村上春樹】

どうも、カルアです。
皆さんは自分自身を理解できているでしょうか。
私はあまり理解できていません。
自分を理解するのは意外と難しいいんですよね。

というわけで今回は村上春樹の「鏡」について書いていきます。

鏡とは何かと問われて、皆さんはどう答えるでしょうか。おそらく多くの人が、身だしなみを整えるためのものと答えるでしょう。では文化的な面では、どのような使われ方をしていたのでしょうか。

鏡により人類は、自分自身を客観的に見る手段を得ることができ、これが自己認識の第一歩とされました。

昔から、鏡に映像が「映る」という現象は、きわめて神秘的なものと捉えられており、そのため、祭祀の道具としての性格を持っていました。そして鏡は、「こちらの世界」と「あちらの世界」を分けるレンズのようなものとされ、鏡の向こうにはもう一つの世界があるという考えは、世界各地でみられます。

また鏡は真実を映し出す物でもあり、これは閻魔の浄玻璃鏡が有名です。この鏡は生前の行動だけでなく、心の中での出来事も映し出すことができるとされました。

「鏡」という作品の疑問点

なぜ剣道経験者なのに木刀を左手ではなく右手に持っていたのか。
主人公は剣道経験者です。剣道は竹刀を右手で持つため、ここで木刀が左手にあることはおかしいことなのです。

「それは僕がそうあるべきでない形での僕なんだ。」とどうして思ったのだろうか。
鏡に映った自分を見て、なぜそう感じたのでしょうか。

「僕」のことを憎んでいた。
どうして、鏡の自分がそう感じていると思ったのか。

「憎む」という言葉を辞書でひくと、3つの意味が出てきます。
まず「 よくないこと、本来あってはいけないこととして、許しがたく思って嫌う。他人の言動などに、強い不快の感情をいだく。」で、これは憎悪に近いものです。

つぎに「自分に不利益をもたらすものとして嫌う。」、嫌悪になり少し弱くなります。

最後に「非難する。なじる。」と憎しみという感情としては最も弱い意味合いになります。

「鏡」の解釈

これらのことから、はじめから主人公(以下「僕」とする)は鏡の中の「自分」と、入れ替わっていたのではないかと感じた。最初にも書いた通り、鏡は異世界とつながっているといわれています。

そして鏡は逆のものを映し出します。そのため「僕」は剣道経験者でありながら、竹刀を左に持ったのではないかと感じました。

また「僕」は大学に進学していません。もしも鏡の中の「自分」が「あちら」ではなく、「こちら」の人間であったと仮定します。

さっきも述べた通り、鏡は逆を映します。つまり、「自分」からしたら、大学に進学するつもりだったものを勝手に、変えられたことになります。
そのため「僕」が「それは僕がそうあるべきでない形での僕なんだ。」と感じ、「自分」が「僕」を、「本来あってはならないこと」として憎んでるのではないかと思いました。

またこの現象が起きたのは、朝3時で、昔の時刻で八つ半にあたります。これを方角に当てはめた時、北東になり、陰陽道においては鬼門、風水では山、自己啓発や学業が入ります。
鬼門は言葉からわかる通り、不吉なことを表します。「僕」からしたら、元の持ち主に出会うのは良くないことでしょう。
そして自己啓発や学業は、自分の能力を上げるためのものです。私は、この風水の部分は、「自分」の性格のようなものを表していると感じました。

自分のことは自分が一番わからない

この話の最後で「僕」は、「自分自身以上に怖いものがこの世にあるだろうか」と言っています。まさにその通りです。自分自身を客観的に見ることができない分、理解することは困難です。そして理解のできないものを、人間は恐れます。

しかしそれではいけません。自分を理解できないなら、他人に理解をしてもらう必要があります。そうすることで自分は相手を知り、相手は自分を知るという環境が出来上がり、自分自身への理解ができるようになるはずです。
またそうすることで、自分の状態も把握できるようになり、精神的な負担が減ると思います。

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