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教科書だけで解く早大日本史5-3 商学部2020

 商学部2020の第3回です。前回予告の未見史料は大問4の話でした。とんだ勘違いでしたが、大問3でも未見史料から出題されています。さすがにこちらは見たことのある受験生は少なかったでしょう。

 さっそく中身をみていくことにいたしましょう。

問題は大学の公式ページに掲載されています。

東進データベースは要登録です。

◎問A 時代判定 史料1と史料3は誰の言葉か

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 史料の解説文に、「史料1は17世紀中頃」「史料3は18世紀末期」とおおまかな時代が記されています。それぞれの言葉が誰の言葉かがわからなくとも、選択肢の人物がどの時代の人かがわかればよいわけです。

 史料1の選択肢で17世紀の人物は、1の池田光政だけです。また、史料3の選択肢で18世紀末期の人物も1の松平定信だけです。

「いくつかの藩では藩主が、儒者を顧問にして藩政の刷新をはかった。池田光政(岡山)保科正之(会津)・徳川光圀(水戸)・前田綱紀(加賀)らはその例である①。」(山川日本史B301 199頁 以下、頁数のみ) 引用内の太字は筆者による(これ以降、同様)
①「池田光政郷校(郷学)閑谷学校を設けたほか、熊沢蕃山をまねいて重く用い、蕃山は花畠教場を設けた。保科正之(将軍家光の弟)は山崎闇斎に朱子学を学んで、多くの書物を著した。また徳川光圀は彰考館を設け、『大日本史』の編纂を開始し、明から亡命した朱舜水を学事に当たらせた。前田綱紀は朱子学者木下順庵らをまねいて学問の振興をはかった。」(199頁脚注①)

 池田光政に関しては脚注にある内容で有名です。また、他の選択肢に登場した保科正之(4代将軍家綱を補佐)、前田綱紀らについても書かれています。熊沢蕃山、山崎闇斎、木下順庵らにはまたふれる機会があるでしょう。特に木下順庵の門下は「木門」と呼ばれ、史料2の作者などが輩出しました。

 松平定信が18世紀末期の人物であることは中学生レベルです。もちろん教科書にも書かれています。1789(寛政元)年に勃発する尊号一件にからんだ問題が問Fで出題されています。(なお、高校入試では「寛政の改革」と「フランス革命」が同時期であることがよく出題されます)

 教科書で寛政の改革関連の記述の後、諸藩での財政改革についてふれられています。

「諸藩でも、田畑の荒廃や年貢収入の減少による財政危機は、幕府と同様であった。このため寛政期(1789~1801年)を中心に、藩主自ら指揮して綱紀を引き締め、領内での倹約や統制を強め、財政難を克服して反権力の復興をめざす藩政改革が広く行われた。…改革に成果を上げた熊本藩の細川重賢、米沢藩の上杉治憲、秋田藩の佐竹義和らは名君とみなされた。」(234頁)

 彼ら名君と呼ばれた藩主は、みな藩校(藩学)の設立者の表(228頁)でも確認できます。細川重賢(銀台)が熊本・時習館、上杉治憲(鷹山)が米沢・興譲館(復興)、佐竹義和が秋田・明徳館、そして島津重豪が鹿児島・造士館です。みな18世紀後半の人物です。

 なお、水野忠邦は1841(天保12)年からの天保の改革をおこなった人物、松平慶永(春嶽)は幕末に文久の改革で政治総裁職に就き、藩は維新で活躍した由利公正、横井小楠(出身は熊本藩)らが輩出しました。

 ここに登場した10人のうち藩政改革の藩主はやや難しいですが、地方を旅する時などに知っていると旅行をより楽しめますよ。

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(2010年8月 米沢市・上杉神社にて)

〇問B 『藩翰譜』の著者がやったことは

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『藩翰譜』は後の将軍家宣(当時は綱豊)の命で新井白石が記した各藩の歴史をまとめたものです。教科書では215頁の表にその名がみられす。

 選択肢の中で白石の実現したことを探せばよいということです。

「朝鮮の通信使が家宣の将軍就任の慶賀を目的に派遣された際、これまでの使節待遇が丁重にすぎたとして簡素にし、さらに朝鮮から日本宛の国書にそれまで「日本国大君殿下」と記されていたのを「日本国王」と改めさせ、一国を代表する権力者としての将軍の地位を明確にした。」(202頁)

 4の朝鮮通信使の待遇を簡素化することが正解です。内容自体は教科書本文からわかりますが、『藩翰譜』の著者が新井白石であることは掲載されている資料で判断しますので、評価は〇になります。

 1の質流し禁令(1722⇒翌年撤回)、2の漢訳洋書の輸入緩和徳川吉宗享保の改革で行われた政策です。また、3の学問吟味寛政の改革で行われた政策です。5の蝦夷地調査田沼意次工藤平助の意見(『赤蝦夷風説考』)を取り入れて、最上徳内らを派遣しました。また寛政の改革でも近藤重蔵らが派遣されています。

新井白石については、人間科学部2020の3番で、寛政の改革については法学部2020の2番で出題されています。

△問C 国主は一国の人民を上様より預かり奉る=〇〇

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 近世以後、上の者から領地(知)を与えられることを「知行」と呼ぶようになります。院政期の知行国とは区別しておきましょう。将軍から領地を与えられることを大名知行制、藩内で家臣に領地を与えることを地方(じかた)知行制といいました。4代将軍の家綱が発した「領知宛行状」はまさに大名知行制の確認でした。

「すべての大名にいっせいに領知宛行状を発給して将軍の権威を確認し、…」(198頁)

 「領知宛行状」のなかに「知行」が記されています。教科書に直接の指摘がないため△評価です(用語集には項目があります)。

 正解は2です。天保の改革が失敗する原因ともなった上知令も知行の考え方に基づいたものです。

×問D 史料の読み取り問題

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下線部ロでは「家老と士はその君を助けて、その民を安くせん事をはかる者なり」とあります。読み取りなので「教科書で解く」わけにもいきません。「その君を助けて」とあるので、「主君を助けて」または「主君のために」のいずれかであり、「その民を安くせん」ですから、「領民」が安心できる=「平穏に暮らせる」と読めばよいでしょう。

 正解は3です。

◎問E 「慶長五年」天下分け目の…

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 新井白石が『藩翰譜』を「しるしはじめ」たのは「慶長五年」の出来事ののちに「天命」が改まったからだと書いています。

 慶長という元号の時期は、豊臣秀吉の朝鮮出兵が「文禄・慶長の役」であることや徳川家康が金座・銀座でつくらせたのが「慶長金銀」であることから判定できるでしょう。

 天命が改まる出来事=支配者の交代がおきた慶長5年の出来事と言えば、

「五奉行の一人で豊臣政権を存続させようとする石田三成と家康との対立が表面化し、1600(慶長5)年、三成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあげた(西軍)。対するのは家康と彼に従う福島正則・黒田長政らの諸大名(東軍)で、両社は関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。」(170頁)

 もっとも覚えやすい西暦年の一つが天下分け目の関ヶ原1600年ですが、慶長年間であることも覚えておきましょう。
 織田信長時代の天正は秀吉時代にもしばらく続くように、秀吉時代の慶長も江戸幕府開幕からしばらく続きます。大坂の陣で豊臣氏が滅亡し、元和に改元されます。1615(元和元)年の武家諸法度は「元和令」です。

本能寺の変は1582(天正10)年、朝鮮出兵は文禄の役が1592(文禄元)年、慶長の役が1597(慶長2)年、大坂の陣は1614-15(慶長19-元和元)年、島原天草一揆は1637-38(寛永14-15)年です。

◎問F 「六十余州は( ニ )より御預かり」

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 松平定信が唱えたのは「大政委任論」と呼ばれる考えかたです。将軍は天皇より大政を委任されているというこの考えは本居宣長が『玉くしげ』の中で論じました。14代家茂に対する大政委任、15代慶喜の大政奉還につながる考え方です。

 空欄に入るのは「天皇」ですから、それに関する説明で正しいものを見ていけばよいということです。

1は誤文。紫衣事件は「1627(寛永4)年、届け出なく後水尾天皇が紫衣着用を勅許したことを問題にし、これに抗議した大徳寺の沢庵らを処罰した」事件で、「幕府の法度が勅許に優先することを明示したものといえる」(175頁 脚注①)事件でした。選択肢の内容は逆です。

2も誤文。禁中並公家諸法度は幕府が制定したものです。1613(慶長18)年の公家衆法度を出したのに続いて1615(元和元)年に制定しました。

3も誤文。閑院宮家は新井白石の政治で新設されました。松平定信の時に起きた尊号一件は光格天皇の父に尊号を送ることをめぐってのものでしたが、この光格天皇とその父は閑院宮家の出身です。現在の天皇家につながる系統ですし、光格天皇は現上皇の前に生前退位した天皇としても話題になりました。したがって5が正文です(尊号一件については教科書234頁)

4は誤文。生田万は「大塩門弟」(実際には違う)を名乗って越後柏崎で陣屋を襲撃した人物です。宝暦事件では竹内式部(重追放)、明和事件では竹内式部(流刑)と山県大弐(死罪)が処罰されています。

◎問G ( ホ )は( ニ )から政務を預かる

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 すでに前問で解説済みです。(ホ)は将軍以外ありえません。

◎問H 徳川慶喜の父は〇〇藩主

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「…13代将軍徳川家定に子がなく、将軍継嗣問題がおこった。越前藩主松平慶永(春嶽)・薩摩藩主島津斉彬らは、賢明な人物を求めて一橋家の慶喜(斉昭の子)を推し(一橋派)、血統の近い幼年の紀伊藩主徳川慶福を推す譜代大名ら(南紀派)と対立した。」(254頁)
「一方、水戸藩のように、藩主徳川斉昭の努力にもかかわらず、藩内の保守派の反対などの抗争で改革が成功をみなかった例もある。」(242-3頁)

 3が誤りです。紀州藩主は対抗馬の慶福(のちの14代家茂)です。正しくは水戸藩主です。

 文久の改革では、前述のように松平慶永が政治総裁職、徳川慶喜が将軍後見職、松平容保(会津藩主)が京都守護職に任命されました。戊辰戦争時、フランス公使ロッシュは幕府に肩入れしますが、朝敵とされた慶喜は上野寛永寺に蟄居し、江戸城は無血開城されます。

◎問I 何がなんでも武力討幕しかないでごわす

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( ト )に入るのはもちろん「大政奉還」です。

「徳川家茂のあと15代将軍となった徳川慶喜は、フランスの援助のもとに幕政の立て直しにつとめた。しかし1867(慶應3)年、前年に同盟を結んだ薩長両藩は、ついに武力討幕を決意した。これに対し土佐藩はあくまで公武合体の立場をとり、藩士の後藤象二郎と坂本龍馬とが前藩主山内豊信(容堂)を通して将軍徳川慶喜に、討幕派の機先を制して政権の返還を勧めた①。慶喜もこの策を受け入れ、ついに10月14日大政奉還の上表を朝廷に提出した。
 同じ10月14日には、朝廷内の岩倉具視と結んだ薩長両藩が、倒幕の密勅を手に入れていた。」(258頁)

 やや長い引用になりましたが、事実経過は以上です。1の「この1か月後」が誤りで、倒幕の密勅は同日夜に発せられました。2の公儀政体論については同ページの脚注①に内容が書かれています。3は引用の通り正文。4の摂政・関白・将軍の廃止も259頁に記載されています。5の「ええじゃないか」については、引用の前の項の最後にかかれており、こちらも正文です。

〇問J 本居宣長の著作はどれか

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問Fの説明のところでネタバレしてしまいました。正解は5の『玉くしげ』です。教科書で本居宣長の著作として挙げられているのは、『古事記伝』だけです。『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』『玉くしげ』『秘本玉くしげ』はでてきません。

※「玉」のつく著作がやたらとあるため、現役の頃に『源氏物語玉くしげ』というフュージョン作品名を書いてしまったことがあります(恥)

ただ、5以外の4つはすべて著者とともに教科書の表に載っています。

 1の『統道真伝』は安藤昌益、2の『国意考』は国学者の賀茂真淵、3の『柳子新論』は山県大弐、4の『経世秘策』は本多利明です。(226頁、228頁、245頁)

大問3は以上です。かなり易しいセットだったような気がします。◎6〇2△1×1でした。

次回は、前回の予告通り、明治初期、早大受験生なら目を通しておいてほしい史料からの出題です。

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