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居場所としてのnote


#noteで良かったこと 。このタグを見たとき、「絶対書かなきゃ!」と思った。本格的に使い始めて半年ほど。noteへの愛と感謝は日に日に強まるばかり。でも毎日更新系の話は、すでに過去に書いてしまった(気になる方は下記からどうぞ)。

ずぼらで飽き性の私が、なんでnoteを毎日書くようになったのか?

毎日続けてみたら、こんなイイコトがあったよという話

でも、続いてるのって私の努力とか以前にnoteの仕組みのおかげだよね?って話

今日は毎日更新系のティップスみたいな話じゃなくて、もっと個人的でわがままなnote愛を語りたいと思った。noteと私の思い出的な。

で、思い出した。まだ暑かった9月のある夜のこと。

それは帰りの東西線の中。いつものように死んだ目でnoteをひらいてエネルギー補給をしようとした私は、スクロールする手をとめた。口から、心臓が出そうになった。

「コンテンツ会議」の編集部まとめ記事の中に、私の書いた文章があったのだ。うそ、うそ、うそだろ。もちろん個人ユーザーのかたからマガジン追加してもらうのだってめちゃくちゃ嬉しい。だけど、note公式さんから「#コンテンツ会議」マガジンに追加してもらえたことは、私にとってちょっと特別な感動だった。

興奮冷めやらぬ私は、恋人と食事をしながらそのことを彼に伝え、彼は私の勢いにいささか引きながらも「お、おう、おめでとう」と言ってくれた。しまった困らせちゃった、と頭の隅ではわかっていつつもやっぱり嬉しくて、ちょっと泣いた。たかが一度のマガジンで、なにをそんなに興奮してるんだと思う人もきっといるだろう。だけどそのくらい、私にとっては嬉しかったのだ。

私のオーバー気味なリアクションには理由があった。

私はメーカー勤務なのだけど、会社ではいちおうクリエイティブ系の部門に属している。CMプランニングやデザインを行う部門だ。仕事ではよく、クリエイティブについての意見を求められる。入社当初は正直な感想を口にしていた。最初のうちは良かった。だけどだんだん私が口を開くと、「めんどくせぇな」という雰囲気になることに気づいてしまった。

上司に求められているのは、ひとりのターゲット・ひとりのユーザーとしての私の「意見」や「感想」なんかじゃなくって、仕事を円滑にすすめるための「同意」なんだ。そう思うようになってしまった。一度そう思うと、なかなか素直な声は出せなくなった。その場で一番最適解に近そうなことを、まわりの顔色を伺うようになった。仕事は好きなのに、会社にいると食欲がなくなった。


そんな中、「好き」と思った作品に対して嘘も偽りもなく、ただただ爆発する愛情を文字にしたのがさっきの「マンマ・ミーア」の感想だったのだ。言葉にしないとどこかへ飛んでいってしまいそうな興奮を、引っ張り下ろしてきて言葉にした。改めて読み返すと、まったくもって上手じゃないし、話はとっちらかってるし、熱意「しか」ないような文章。だけどこれを、noteの中の人はきちんと読んでくれた。たぶんその熱のようなものを、感じとってくれたのだろう。

ドラマ「カルテット」の中に、プロになりきれない「三流」の音楽好きたちが語る大好きなシーンがある。お金ももらえないしほとんどの人は聴いてもくれないのに、なんで私たちは路上で演奏してるんだろうね?でも、たま〜〜〜に、お客さんに「届いた!」って思う瞬間があるでしょ。だから辞められないんだよね・・・・・・記憶に頼ってるので細部は自信ないけど、とにかくそんな話。

自分の中の感情が、「届いた」。

その喜びを思い出させてくれたのがnote。私が感じたことを、私の気持ちを、私は否定しなくていい。そう思わせてくれたのがnote。

note運営のみなさん、あたたかな居場所を、ありがとうございます。これからもあたたかなnoteタウンの住民でいさせてくださいね。

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