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私なんていないだろ

あなたは自分の顔を「見た」ことがありますか?私はありません。自分の顔が映し出された画像や動画を「視る」ことはできますが、自分の顔を目視したことはありません。教習所で「後方をミラーで確認。その後必ず目視」と言われた時、不思議な感覚と問いが湧き上ってきたことが忘れられません。ミラーに映る世界には必ず死角や歪みが生まれます。



鏡を通した現実と目視する現実は違います。私たちは鏡を通して自分の顔を視ているだけで(あるいは見ているつもりになっているだけで)、自分自身を永遠に目視することができない存在なのです。自分の声を録音して聴くと、多くの人が違和感を感じるのは、現実そのものと「認識を通した現実」が異なることを表しています。



私たちは何らかの色付けをした上で「自分自身」を認識しています。鏡に映る自分の顔をただ無心になってじっと眺めていると、「あなたは一体誰なのですか?」という問いが生まれてきます。そのゲシュタルト崩壊の感覚は本当に不思議なのです。自分では目視できない「誰か」がそこに映っているからです。


自分と他者の関係さえも、私たちは勘違いしているのでしょうし、本当は私たちが見ている現実こそが自分自身なのです。私が私であるという自我の実在感そのものが、全く怪しいものなのです。




本家ヌーソロジーの解説がすんなりと理解できる人は天才ですw文系女子の私は脳みそが溶けそうになっています。ヌーソロジーを感性を活かして独自に解釈している方もおられ、色々な情報に触れていくうち、あ、こういうことか!とゆっくり腑に落ちていきます。



私たちは「時間の外側」から、時間を見ています。今という地点からは「過去・現在・未来」が同時に取りだせます。それと同じで、私自身を外側から見ている「もうひとりの私」がいます。これは少し訓練するとわかるようになります。私自身は幼い時から「第三の視点」を持っていました。自分を外側から淡々と観察している超客観的な視点です。



私とは人間の形をした生き物で、共通した物質世界の法則の中で生きている個別の存在であるーー私たちはそう思っています。しかし、これは誰がそう思っているのでしょうか。それは自我です。自我は全体や実体そのものではありません。自我から離れた客観性を持った存在がいます。



さぁ、みんなでこの恐ろしい事実をよーく考えてみましょう(笑)この自我とは本当に「私」なのでしょうか?そう「思いこまされている」のではないでしょうか?私たちが自分の顔を見ることができないという事実を、ただひたすらに思考し続けていくと、私は私のことを何もわかっていない、私とは一体誰なのか・・・という根本を揺るがす世界に突入していきます。



ねえ、あなたは誰なの?本当に実在しているの?ーーという極めて新鮮な問いが鮮烈に湧き上り、脳(知覚認識)が崩壊せざるを得ないフェーズに直面していきます。(変人のみなさん、やってみてねw)



自我と主体が別の視点であるということは、「私」と思っている自己に実体などなく、「私」とは他者と同じ「一演者・一役者」ということになりはしないでしょうか?私の宇宙の中で登場する役者が私と他者であり、それを管理しているのは、背景にいる主体の方なのです。(ここらへんで一回、脳がショートしますが大丈夫です)



私たちは肉体を持っているため、この身体の内側の空間だけが自分自身であり、他者とは全く別々の存在であると認識しています。(人間型知覚構造=人間型ゲシュタルト)つまり、宇宙というひとつの入れ物の中に、それぞれ別個の私と他者が包み込まれて存在しているーーという共通認識であり集合意識です。



しかし、この集合意識には多くの難点があります。はっきり言うと、非常に原始的で相当知能が低いです(笑)最大の難点は自分が常に受け身となり、二元論と物質性の中に閉じ込められてしまうということです。「私」とは抗えない事象に翻弄されて生きる無力な存在であり、たったひとつの宇宙(たったひとつの真実と法則)によって縛り付けられた存在であると信じ込まされているため、いつまでたっても外側主体の意識や善悪二元論から逃れられないのです。



この人間型知覚構造=空間認識を変えていくための優れた叡智がヌーソロジーです。実は占星学も同じことを教えています。ヌーソロジーの提唱者・半田広宣さんは「感じるな、考えろ」と説きます。これまでのスピブームの中では「考えるな、感じろ」と言われてきましたね。



でも、それって、反面、危険です。ヌーソロジーがなぜ「考えろ、考え抜け」と言っているのか。それは自分の左脳で論理的に理解しなければ、持続的な認識の変化や拡大は起こりえないからです。認識の構造とは脳のバージョンだからです。脳でしっかり理解しないままにワンネスとか言い出すと、それはこれまでの魚座時代的宗教・スピリチュアルと同じ次元に転落してしまうからです。



いや、これはホントーにとても危険なことなんです。自分自身の生身の理解(実体験と人間的成長)が追いつかないまま、頭とロゴスの世界だけでヌーソロジーやワンネスを「理解したつもり」になって進み続けると精神が崩壊することもあるってことです。知らない間に幻想の中に埋没して、却って自我世界を肥大化=狂気の次元に突入してしまうからです。



具体的に例えるならば、教祖やメンターに成り上がった人物が他者を欲得のままにコントロールしようとしたり、肥大化した自我の万能感に踊らされたり、肉体や現実生活を極端に疎かにしたり・・・といったことです。ですから、物事には段階や順番があり、中間地点を飛ばして高見に行こうとしてはいけないということです。



自分自身が進化の方向に向かっているのか、それとも退化の方向へ向かっているのかを、いつも観察しておくことが大切ですよね。「他者への理解が進んでいるか、正しさや自己保身から離れているか、視点が拡大しているか、幸福感や実在感が増しているか、自分や他者や世界への愛を感じているか」という物差しで見ると、間違えることはないでしょう。



自分で求め、自分で体験し、自分で知ったこと以外、私たちの真実とはなりえません。逆に言うと、能動的に意識の拡大と認識のバージョンアップを求めれば、私たちが新しい世界を「創造する側」に立てるということです。もう翻弄されるのはごめんです。外側のせいにして被害者として生きるなんてまっぴらごめんです。人間型ゲシュタルトって、とんでもなく不自由ですよね。私は自由になりたい!!!



自由とは自分の精神の中にあります。あらゆる思い込みや恐れや価値判断や概念を直視して、その幻想をぶち壊していくことが自由です。外側をいくら変えても、私たちは永遠に自由になんてなれやしません。




そのためにはまず、他者を自分の半身と捉えることです。見ている現実そのものが自分自身なのだという不都合な事実を認めることができるよう、そこに近づいていくことです。私たちは自分の顔を見ることができません。それは自分の半分を決して見ることができないという事実を示しています。見ることができない半分とは「自分の闇」であり「潜在意識(無意識)」であり、「自分の固定観念」です。



それを他者は投影して見せてくれます。そして、ひとりにひとつの宇宙があります。70億の宇宙が交差し合っているのが地球です。ヌーソロジーが示すことは非常に難解ですが、素粒子は意識そのものであり、最終的に宇宙がワンネスであることを示しているのは間違いないでしょう。しかし、いきなりワンネスにいけるほど私たちは進化していません。



いきなり高次元に行きたがるのが私たちの悪い癖です。自分の闇はなかったことにして自分を美しい存在に仕立て上げたいのがいけないところです。いきなり高見に行こうとしてはいけないんです。だから海王星と月に騙されてきたんです。自業自得でしかありません。自分で考える。自分で求める。つまり、自分の幸せくらい自分で責任とれよということです。自分の感情くらい自分で癒せやということです。



私たちの知覚構造や物の見方と感じ方の癖、メディアや世界が常識としている情報、集合意識における共通の価値観、ひいては世界の仕組みや空間の構造さえも、すべてにおいて受け身でいてはいけないということになります。受け身でいる、与えられたものをそのまま鵜呑みにするーーという態度自体が、実は生命と創造性の放棄です。すべてを「能動的に理解しようとし、能動的に働きかけていくことで、すべてを反転させることができる」という事実を認める地点に立ちませんか。



すべては私たちの意識が原因なのです。それが本当に腑に落ちた時、自分を幸せにもできずに、何が人を助けるだ、何が地球のためだーーと思いませんか。他者が、世界が、親が、世の中の仕組みが悪い・・・なんてバカげた眠たいことを宣っているのも、ここらへんですっぱり止めようと思います!!!アクエリアスとはそういうことだもん。

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