見出し画像

メディアに食いものにされないと言う表現がしっくりきた

落語が聞けなくなってしまったと言う記事を書いたことを話していたら、こんな感想をいただいた。単純にテレビで放送する必要が、お互いにないのではないかということ。なるほど。落語というものが寄席で育ち寄席の中で生き続けているからこそテレビというメディアを必要としていないのは、文化の継承という面においては喜ばしいことなんだ。
流行り廃りの激しいテレビというメディアに食いものにされないというのはとても大切であろうし、既存のファンを相手にして成立するというシステムをこれからも大事にしてほしい。

漫才も同じくか。小ネタのくり返し・詰め込みではなく、伏線を感じられるようなコクのある漫才が継承されていくことを願うばかりだ。文化として捉えるならば、だが。

落語には昔から伝わる「演目」がある。時そばや寿限無などは有名で、何度聞いても飽きない。(もちろん芸の上手下手はあるのだろう)
落語には落ちの種類にもぶっつけ落ちなどいくつか種類がある。
能・狂言や歌舞伎と肩を並べて論じてはいけないだろうが、継承されていく文化には、必ず技術が確立されているものだ。そしてそれは書物にも記されておるのだが、継承されていく一番の方法は、師匠の前で稽古をすることではないだろうか。
つまり、口頭で伝えられることこそが、文化が継承されていくということなのではないかと思うのだ。

落語や能・狂言、歌舞伎を極めた人たちは、明らかに一道を突きつめている人たちであろう。だからこそ、同じ演目でも演じ手の個性によって味が違う。我々はその種類の個性を求めているのではないだろうか。薄っぺらではない、屋台骨のしっかりとある個性を。

「演目」のない漫才。人の真似をしたり、よくあるネタを見せると「ベタ」だと言われてしまう漫才。果たして漫才は、文化と呼べるのか。比べるには歴史が違いすぎるのかな。M-1が一役買えるような番組として成り立つなら、テレビも捨てたものではないのかな。


口頭で伝えられていくこと。
芸に幅があるからこそ身に付いている個性があること。
ここが問題なのかと。

今の自分自身に「師匠」呼ばれるような口頭で伝えられる技術があるのか。幅のある芸に裏打ちされた個性があるのか。
今ある知識をもっともっと増やしながら、それを総動員して、伝えていくこと。

行間を読めないのは、その通り、想像力が足りないからだと思います。人の気持ちを汲めないのもそう。子どもたちは、価値観の共有をしているようでしていません。今の自分の気持ちに肯定してくれる人が「友だち」。苦い薬をくれる人は「友だち」ではありません。苦言を呈する子は疎まれます。そんなばかな。。。
それは価値観の共有ではなく、価値観の強要。おっしゃるとおり。それを認められない限り、自分の幅は広がるわけがない。その親もそうなんだから、もうどうしようもない。
【最近の学生を見ていて感じるのは、いかに少ない
努力で如何に高い点数をとるか、ひどい場合には
課題をクリアするための最低の条件は何か、
だけに執着しているように感じます。】

なんとも頭の痛い話を聞いた。

(授業の)時間(数)がないから、(国語の時間に教えるのは)表現力だけにしとけって言われてる。(らしい)

日本語のすばらしさ、ことばのもつ豊かさに触れられりゃよしとしなきゃいけないのかな。

いやいや、それじゃ文化は継承していかないじゃないか。
迷宮……。

よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートは、今後の治療費に使わせていただきます(^_^;)