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今にしてみれば、どうってことなかった

以前にもチラッと書いたことがあるんだけど、ぼくは自動車教習所には通ったことがない。しかし免許は持っている。

いわゆる「一発」という方法でとった。自動車教習所に行かなくても各都道府県の運転免許センターで実技試験に合格すれば免許は取れる。

教習所に行くのは、この実技試験の免除資格をもらうためだ。運転免許センターの仮免試験よりも、教習所の仮免試験の方がはるかにやさしい。そのかわりお金が数十万かかる。

ありていにいえば、カネで免許を買いにいくわけだ。逆に言うと「一発」を選ぶ人はそのワイロをケチっているのである。ぼくはケチろうとした。

そして、えらい目にあった。一発などと書くときれいに聞こえるが、実際に一発でとれる人はいない。当時の運転免許センターでは「最低でも6発かかる」といわれていたけど、ぼくは13発目にやっと合格した。

ただし、1回の実技試験が3000円なので13回受験しても13×3000=39000円しかかからないのでやっぱりお得だ。

とはいえ、メンタルをかなりやられる。教習所だとわいろを払っている分、めったなことがなければ免許はもらえる。指導員と喧嘩したりさえしなければ大丈夫だ。

ちなみに作家の北方謙三先生は、教習所に3回通って3回とも指導員と喧嘩して止めてしまったそうだ。それで免許なしのままでカーチェイスのシーンを書いていたそうだけど

彼は車に飛び乗り、トップギアで走り出した

とかいたの読んだ友人から「悪いこと言わないから免許はとっておけ」と勧められて4回目に通い、我慢に我慢を重ねついに取ったそうである。

いまでも、北方作品の中ではギアチェンジの描写と解説が細かく描かれることが多いんだけど、「そりゃ苦労して取ったんだから、アピールしたいよな・・」とニヤニヤしながら読んでいる。

話がずれてしまったが、北方先生のような人はなかなかいない。たいていの人は1回通えば取れるのが自動車教習所だ。

しかし免許センターにはわいろを渡していないので、そのような情状酌量の余地はない。そもそも「入校」するわけではなく、ある日ふらっと免許センターにいき、実技試験を受けるだけだ。

名前も聞かれないし、指導員と情が通うこともないし、そのぶん容赦なく落とされる。そして10回も落とされると「永遠に受からないんじゃないだろうか」と疑心暗鬼にかられる。

ぼくは8回目におちた後、心が折れて1か月ほど免許センターに行かなかった。すでに数万円投資していたのだが、これ以上通っても永遠に合格しないだろうと思われた。

世間では、運転のヘタなおばちゃんもヘーキで軽自動車に乗っている。それ横目に見つつ、みんな車に乗れるのになぜぼくだけクルマに乗れないのだろうと思ってうらやましく、また、ツマラナイところでケチるのではなかったという後悔もあって、つらい1か月だった。

それから結局、思い直して再び免許センターにいった。そして第11発目についにコツをつかんだのである。3秒待って車線変更するときに「1,2,3」でハンドルを切ると「早い」と言われて減点されるが、「1,2,3っン」でハンドルを切ると減点されないことに気づいて光明が見えた。

この「っン」に気づいたせいで、第12発目は試験終了と同時に指導員から「もうちょっとだな」と言われ、第13発目には見事に合格したのである。

それで何が言いたいかというと、これは昭和の頃の話であり、普段は思い出すこともないエピソードだ。自分がクルマに乗れるのはあたりまえのことだと思ってすでに35年くらい経っている。

しかし、思い出してみれば「永遠に免許をとれないかも」と思っていた時期もあった。あのときはとても苦しいと思ったけど今振り返ってみると何でもない。

その後の人生でも「そのときは永遠に苦しいと思ったけど今振り返ってみるとなんでもない」という経験を何度もしている。たとえば、翻訳で飯を食うことなど永遠にできないのではないかとおもったりしたこともあるけどいまはフツーに食えている。

そういう記憶が積み重なると、たとえ今、苦しい真っ最中だとしても、未来の自分が今の自分を振り返って「結局はなんでもなかったな」と思っている姿を想像できるようになる。

今回もそうなるだろうという未来の視点をイメージできる。

こうして、「振り返ってみればなんでもないことなのだろうな」と思いながら生きていけるのでたいていのことはラクになる。だんだんそうなってくるのは皆おなじなので、お若い方よ、いずれ大丈夫になるのでとりあえず今を乗り切りましょう。

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