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良い文章とはマグロの刺し身のようなもの

スッとアタマに入ってくる文章とは

noteを書くときにいつも思っていることなんだけど「読んでスッとアタマに入るようなもの」を書きたいと思う。そういう文章は読んでも疲れないし、疲れなければまた読んでもらえる。

では「スッとアタマに入ってくる文章」とはどういうものだろうか。

いろんな答え方があるだろうが、ぼくにとって、スッとアタマに入ってくる文章は、文章そのものがスッとしているかどうかとはあまり関係がない。それより、アイデアがスッとしているかどうかが肝心だ。

流れるような文体で書かれていても、何が言いたいのかわからない文章もあるし、ゴツゴツした文章でも、言いたいことがストレードに伝わってくるものもある。

言い換えれば、読んでスッと理解できるかどうはかは、、書き手があらかじめアタマの中で考えをどれだけ整理できているかにかかっていると思う。

これは当たり前と言えば当たり前のことで、書き手のアタマの中でごちゃごちゃになっている考えが、読み手のアタマにスッキリ入ってくることなどありえない。

わかりやすいとはビジュアル的に単純なこと

では、わかりやすいとは具体的にどういうことかというと、受験参考書に「チャート式」などというロングセラーがあることでもわかるとおり、ズバリ「ビジュアル的に単純化されている」ことだと思う。

ここで、話がそれるけど小説の話をしたい。

マンガや映画と同じく、小説でも戦闘シーンが描かれることが多い。しかし、マンガや映画のようにビジュアルがないので、複数の人間が入り乱れて戦っている場面を、読者がスッと理解できるように描くのは至難のわざだ。

たとえば、サッカーの試合を文章で描くとする。

これが映画なら、スタジアムを俯瞰でとらえれば、赤いユニフォームと青いユニフォームがどういう陣形で動いているかを一目で把握できるけど、あれを文章でやろうと思えば難しい。それが上手なのが北方謙三先生なのである。

『風の聖衣 挑戦シリーズ3』(1990)というのをはじめて読んだ時に感心させられた。4~5人の傭兵部隊が、十数人のゲリラ部隊と激突するシーンがあるんだけど、敵味方が入り乱れているにもかかわらず、一読してスッとアタマに入った。

あのわかりやすさは評論家の人もほめていたけど、実際、北方先生は机の上にコマを並べて、それを動かしながら書いたのだそうだ。

著者が、ビジュアルで確認しつつ、それを描いているので読者のアタマにもスッと入ってくるのである。

この作品にかぎらず、北方先生は入り乱れた戦いを描くのがうまくて、この作品より3年前に書かれた『あれは幻の旗だったのか』も見事だった。

舞台は1960年代後半の学生紛争であり、実際の紛争は、シロウトのデモ隊がプロの機動隊に蹴散らされて終わっている。

しかし北方作品の中では、デモ隊の中にアメフト部の連中がいて、フォーメーションを鍛えに鍛えて機動隊にぶちあたっていく。そのフォーメーションが目に見えるように描かれていた。これもコマを動かしながら書いたのではないだろうか。

その後、北方先生は歴史小説に活躍の場を広げるけど、最初の作品が『武王の門』(1989)という南北朝時代の戦いであり、数千人規模の軍勢がぶつかるのだが、これがまた目に見えるようなのである。

さらに『水滸伝』(2008)になると政府軍5万人対反乱軍3万人が激突するんだけど、これほどの人数に膨れ上がっても、おどろくほどスッキリとアタマに入ってくる。

たぶんコマを動かしたり、図を描いたりして、ビジュアルで確認しながら描いていったのだろう。

ちなみに司馬遼太郎が『坂の上の雲』で日本海海戦を描いた際にも「各戦艦がどう動いて、どうやって旋回して・・」みたいなことを図式化しながら書いたと聞いたことがあるけど、あれも一読してスッとアタマに入ってくる。

このように、読むとアタマにスッと入ってくる文章は、小説にかぎらずあらかじめ図式化されていることが多いように思う。

ぼく自身、書く前に軽く図を書いてから書き始めることがよくあるが、そのほうが、一読して理解しやすい文章になる。

文章とはマグロの短冊である

もちろん、図式化にもデメリットはあって、それはわかりやすくなりすぎることだ。

リアルな現実は、それほどわかりやすくできていない。リアルな戦闘も、「水滸伝」や「坂の上の雲」みたいにスッキリしておらず、両軍入り乱れてグチャグチャなのだろう。それをスッキリと図式化した時点で、貴重なディテールは切り落とされてしまう。それ読んで

リアルじゃない

と感じる人は当然いるだろう。

ぼくの記事も図式化にこだわるあまり、すっきりしすぎて論点が切り落とされていると感じられることもあるだろうが、そうなるとわかったうえで、それでもスッとアタマに入るように書きたいと思う。

なぜならnote記事とは

マグロの刺し身

みたいなものだと思っているからだ。刺し身は短冊形に切ってあるでしょう。あの短冊を見て

リアルなマグロはこんな形じゃない

といわれればたしかにその通りで、黒潮の中を回遊しているマグロは短冊の形はしていない。そういわれればそうなのだが、ではマグロを姿焼きにすればおいしいかというとそんなことはない。

「切り落とす」と言うのは簡単だが、リアルなマグロからいろんなものを切り落として、口に入れやすく、味わいやすい形に仕上げるには大変な技術が必要で、1級マグロ解体師は日本全国でわずか9人しかいないのだそうだ。そうやってたくみに切り分けられたマグロを見て

リアルじゃない

などという輩がいたら「あほか」とみなさん思うでしょう。

アイデアを図式化する過程もこれと似ていて、リアルな現実からいろんなものを切り落として、スッとアタマに入る短冊形に仕上げるには技術が要る。

そのうえで、切り落とした部位(アイデア)は、捨てるわけじゃない。料理と同じで、切り落としたアイデアは漬けにもできるし、かま焼きにもできるし、べつな記事に仕立て直せばいいのだ。

北方先生も、わかりやすい戦闘シーンで描ききれなかった部分は、別の作品のアイデアに仕立て直しているのだろう。

そういうわけで、文章はいくらでも図式化して、わかりやすさを追い求めればいいというのが僕の考えです。

分かりにくさの中で微妙な真実を伝える・・みたいなのは、包丁の切れ味の悪さを言い訳しているにすぎないのではないだろうか。

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