見出し画像

鬼畜米英!?

「自分の言葉でしゃべる」ことは大事である。とても大事だ。とてもとてもトーテムポールである。

他人の言葉をカンタンに拝借してはいけない。ぼくの経験では、ことばの使い方がいいかげんな人は、考え方もいいかげんである。そしていちばん良くないのは、他人の言葉をたいして考えもせずに受け入れてしまう態度である。

ちなみに松竹芸能の北野誠さんは、「ウィンウインっていうヤツは絶対うらぎる!」と言っていた。軽はずみなコトバを使うヤツは信用できないのだ。

まあ、若い頃ぼくもよくやっていたのでエラそうなことは言えないけど、年をとってからは自分の言葉を使うように気をつけている。

たとえば企業文化やブランディングは、言葉から始まることが多い。ほら。ラーメン二郎のファンのことをジロリアンといったりするじゃないですか。自分は二郎のファンだと思うより、ジロリアンだと思うほうが帰属意識が生まれやすい。言葉にはそういう力がある。

食べ物が身体を作るように、使っている言葉が自分の考え方を作ってしまう。軽はずみに他人の言葉を使っていると自分の考えを持てないようになる。

大事なのは等身大の言葉を使うこと。自分の気持ちと自分の言葉を一致させることだ。だから、スローガンなどというのは使わなければそれに越したことはない。

日本は、明治時代に「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」というスローガンを掲げた。これはアジアを離れてヨーロッパに入るという意味だけど、そんなのムリである。国ごと引っ越しすることができない以上、日本という国は、いつまでたってもアジアの島国だ。

ところがゴロがイイので、みなさかんに「だつあにゅうおう、だつあにゅうおう」と繰り返しているうちに、なんだかこの国がアジアじゃないような気分になって、他のアジア諸国を見下すようになってしまった。

しかし、やがて入欧できずに英米に拒否されてしまった。するとこんどは「鬼畜米英(きちくべいえい)」である。

これも、よく考えればらんぼうなことばだ。「英国と米国は鬼であり畜生である」という意味であり、言葉に気をつける人はこんなことは言わない。

しかし、きちくべいえいきちくべいえいと繰り返しているうちになんだかほんとうに鬼畜のような気がしてきてしまう。

ところが、いくらケンカしても英米には勝てないとわかると、今度は「マッカーサー万歳(まっかーさーばんざい)」なのである。まっかーさーばんざいとは、マッカーサーという人に1万歳まで生きてほしいという意味だ。

こないだまで殺し合っていた相手に1万歳までいきてほしいと言ってはずかしくない神経がわからない。

日本人はこういう風にムードに流されやすく、豹変しやすい。この性質はいまだに世界中から信用されていない。アメリカも中国も、日本のことを基本的には信用しておらず、「今はおとなしくしているけどいつ豹変するかかわかったもんじゃない」という疑いの目で見ている。

ちなみにぼくが欧米に学ばねばならいと思ったら、脱亜入欧とはいわず、「欧米から学ぼう」と言いたい。これば等身大の自分の言葉だ。

鬼畜米英にしても、しっかり考えたうえでそれでも英米は鬼畜にちがいないとおもえるなら堂々と鬼畜米英と言えばいい。ちなみに、ぼくなら「いくらなんでも鬼畜ってことはないよな」と思うので「英米ダメ。ゼッタイ。」くらいにしておく。

また、あなたのマッカーサーに対する思いがあまりにも熱く、1万歳まで生きてほしいという願いが消えないなら、自信を持ってマッカーサー万歳といえばいい。

ただしぼくがマッカーサーを気に入った場合は「マッカーサー93歳!」くらいにするな。93歳も生きれば大往生なので、これでも十分にほめ言葉だ。

そういうふうに等身大の言葉を使おうということで、そうでなければばいつまでたっても軽はずみな日本人のままだ。

こないだ、寄り添うとか元気にするという言葉に違和感を覚えるという記事を書いたけど同じことだ。しっかり考えて使うのならいいが、ほとんどの人は鬼畜米英的にとりあえず使っている。そう言っておけば、向こう三軒両隣のカドが立たないかな、という感じだ。

さて、最近気になっている言葉は、エビデンスとピークアウトである。

なぜエビデンスは証拠や根拠ではだめなのだろう。またピークアウトはなぜ「ヤマを越える」とか「峠を越す」ではダメなのだろうか?

日本中がさかんにピークアウトピークアウトと言っているのを聞いているとピーチクパーチクしているというか、キーチクベイエイしているようでなんだかはずかしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?