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「他人が自分より恵まれている」というのは稚拙な思い込み

ぼくは京アニ事件についてはずいぶん考えた。それ以前は池田小殺傷についても土浦連続通り魔についてもずいぶん考えた。そして今は京王線刺傷事件について考えている。「見ず知らずの他人をたくさん殺して死刑になろう」という考え方について考えている。

死刑問題には昔から関心があり、まっさきにこころに浮かぶのは谷垣法務大臣が2014年に執行を命じたときのことばだ。

私は死刑執行を命じるときは、それに関する記録はできるだけ丁寧に読むように心がけております。(中略)そういう極めて残虐な犯罪を犯した人達の、特に子どもの頃を振り返って見てみますと、極めて不幸な生い立ちをした人が多い。幸せな家庭に育った人がそれだけ残虐な犯罪を犯すことはあまりないんだろうと私は思います。

このことばは重い。殺した側に「極めて不幸な生い立ち」が多いというのはじじつだろう。

とはいえ、きわめて不幸な生い立ちに育ったら、他人を傷つけていいということにもならない。さらに、殺された人は殺した側よりも「幸せな家庭に育った人」に決まっているわけでもない。

京王線刺傷事件では、胸を刺されて意識不明の重体だった男性(72)が意識を回復したそうである。かれは72年間生きてきて25歳の犯人が味わったほどの苦労を経験したことがないのだろうか。そんなことはわからないのである。

ぼくの知る限り、不幸な生い立ちにそだった人でもそのうっぷんを他者に向ける人と自分に向ける人がいる。自分に向ける人は自傷行為にはしり、アルコール依存症やドラッグ依存症におちいり、ついには自死を選ぶ。

一方で、攻撃性が他人にむかえば京王線刺傷事件や京アニ事件になる。

どちらも当人の精神が病んでいることにはちがいないが、その攻撃性が自分にむかうか他者に向かうか、その矛先を決めるのは病(やまい)そのものではないとぼくは思う。

女子プロレスラーの木村花さんの例を取ってみよう。木村さんを誹謗中傷して死に追い込んだ人はこころが病み、自己肯定感が低かったのだろう。しかし、木村さん本人だってこころが病み、自己肯定感は低かったはずである。ただし木村さんはは京王線で刃物を振り回したりせず、誹謗中傷で他人を追い込んだりもせず自ら消えていくことを選んだ。

自殺を推奨するつもりはないが、木村さんを追い込んだ人と追い込まれた木村さんはどちらも病んでおり、自己肯定感が低かったはずだが、攻撃性の矛先が180度異なるのは事実だ。ならばこのちがいは、心の病そのものとは関係ないはずだ。攻撃が他人に向かうかどうかはこころの病気そのものできまるというより「相手が自分より恵まれている」「自分だけが不幸だ」と思い込んでいるかどうかで決まる。つまり自己中(じこちゅー)かどうかで決まる。

通り魔をやれるのも、見ず知らずの他人を「こいつらは自分よりめぐまれているにちがいない」となんとなーく思い込んでいるからだ。京王線の車内に食糧難でガリガリに痩せたアフリカのこどもたちばかりが乗っていたら男は刃物を振り回してはいないはずだ。「他者がじぶんよりもめぐまれている」なんてのは実に表面的な思い込みだ。

なぜこんなことを考えるかというと、ぼく自身がわりに虐待されてそだったにもかかわらずめぐまれているように思われ「不幸な生い立ち」の人から攻撃されるからである。

ちなみにぼくのばあいは、父方にはギャンブラーや暴力をふるうクズ人間しかおらず、母方にはまじめでしっかりした人しかいなかったので、環境のギャップが大きすぎてこうなってしまった。母方の家で育ったので谷垣さんの言う「幸せな家庭に育った人」に近い感じがあるのだが、一方で暴力オヤジといっしょに暮らしていたのも事実である。

他人を攻撃する人は「お前らみたいな恵まれているやつらには俺の苦しみなんかわからない」なんて勝手におもっているわけだが、そんな風に思いこんでいる時点でまあ甘い人生だよな。

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