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『TENET テネット』すごい

クリストファー・ノーラン監督の映画『TENET テネット』(2020)を見ていろいろ思うところがあったので書いてみます。

「いろいろ」と書いたけど、作品について「いろいろ」はない。

傑作だ

という一言で足りる。ただし・・・酷評している人が多いことについては、言いたいことが1つだけあって、言いたいことというよりはむしろお願いなのだが、そう言う人にぼくがお願いしたいのは

なるべく、映画を見るのをやめてくれ

ということだ。これは、黒煙を上げて走っているトラックに向かって

CO2を出すのをやめてくれ

と言いたくなるのと同じである。アホだからやめらなれないというなら、せめて感想という名の公害はトイレの中でウンコと一緒に流してほしい。

これはぼくの個人的な意見ではなくて、そのほうが地球にやさしいのでそうした方がいいという論理的な判断に過ぎない。そもそも、こんな簡単なことは、他人に言われる前に自分で気づいてほしい。

買うべきだった・・

今回アマゾンプライムで見たのだが、その前にマイクロソフトでセール(買い切り)をやっていたことがあり、一度はカートに入れたのだ。しかし念のためにネットを検索してみると予想以上に酷評されているので、

今回は失敗作だったのかな・・

と思って買うのを止めた経緯がある。いちおう世間を信用して「失敗作らしい」ということにしていたのだが、今回見てみたらどこも失敗などしておらず、買わなければいけない作品だった。まあ、世間の評価を安易に受け入れたのがバカだったんだけど。

どこがすごいか

内容については言わずもがななんだけど、『メメント』、『インセプション』、『インターステラー』と時間の本質にかかわる作品をブレずに発表し続けている姿勢がそもそもすばらしいし、しかも同じ時間論でありながら、これまでとは異なるアプローチで表現の冒険に打って出ていることが、なんといってもすばらしい。

ジャン・コクトーが『オルフェ』(1949)で、職業監督なら絶対に逆回しを使わないところであえて使ってみせるという詩人らしい大技でおどろかせてくれたけど、あれから半世紀以上たってその逆をやっているのがすげえ。

この先、数年後に、ノーランがまたあらたな時間論とその表現を打ち出してくることなどあるのだろうか。あってほしいけど、無理な気もする。でも、もしそういう未来が来るなら、彼の頭の中は一体どうなっているのだろう。

ディテールの凄みについては、目の見える人は自分でわかるので書きません。

本当のSFとは

ただし、見終わってからひさしぶりにSF小説を読みたくなったのでフィリップ K ディックの短編を読んでいるのだが、ディックに対してちょっと文句がある。

本物のSF小説は『TENET テネット』のようでなければならない。あるいは『ソラリスの陽のもとに』のようでなければならない。あるいは『最後にして最初の人類』のようでなければならない。

つまり、作品の核に哲学的な問いがなければならない。人とは何か?生命とは何か?時間とは何か?宇宙とは何か?

こうした本質的な問いにフィクションの殻を借りてするどく切り込まねばSFとはいえないのだが、そうでないのが多すぎる。ほとんどのSFは、SFという設定を借りて

読者をアッと言わせる

ことを考えているだけだ。ニセモノが多すぎる。

ぼくは自分がSFを苦手にしていると長年思っていたけどそうでもないということが、『TENET テネット』のおかげでようやくわかった。ぼくは読者をアッと言わせたいだけのニセモノに辟易しているにすぎない。

読者をあっと言わせたいだけならSFの設定など要らないのだ。O・ヘンリーはSFは書いてないけど読者をアッと言わせているではないか。

映画なら、『シックスセンス』のナイト・シャマラン監督は、どの作品でも必ず観客をアッと言わせるが、SFは1つもない。アイデアとテクニックがあればSFの設定を借りなくてもいくらでもアッと言わせることはできるので、SFの設定を借りてピントの甘いことをするのはやめてほしい。

というのは、ディックの短編に対しての文句である(もう死んでるけど)。

目を開かされた

それにしても『TENET テネット』を酷評する人がいるのはネットから誹謗中傷がなくならないのと同じで、人のおろかさをどうすることもできないということなのだろう。セールの時に買っておくべきだった。

なんだか怒っている風になってしまったけど、真のSFの哲学性に目を開かされた驚きの気持ちを爆発させてしまった。これからたくさんのSFを読むことになるだろう。


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