見出し画像

イメージは人を簡単に操作できる

むかしむかし、『Shall We ダンス ? 』(1996)というとてもステキな映画があったのございます・・・。

当時大評判だったし、ぼくも劇場へ見に行ったし、もちろんステキな映画だったんだけど、最近、ふとしたことでこの映画の予告編を見なおすチャンスがあった。

そうしてみたら、当時の自分には見えていないものがあったということを思い知らされた。それで、急にこの映画を見直したくなったのでこれから見るつもりなんだけど、その前に「若いころ見えていなかったもの」について書いてみよう。

なお、この記事はステキな映画のハナシではありません。最終的には「グローバルリセットと大衆操作」というぶっそうな話題へと向かう予定です(うまくいけば・・・)。

なお、まだ見直してないので、筋はうろ覚えです。

さて、この映画の主人公(役所広司)はしがないサラリーマンで、毎日電車で会社と自宅を往復する日々だ。

山手線にのった人はだれでもわかるんだけど、路線沿いには膨大な数の貸しビルがごちゃごちゃ立ち並んでいる。そして、疲れた体でつり革につかまり、窓外のビル群をながめていた役所さんは、ある日そこに

マドンナ

を見つけてしまうのである。

マドンナを見つめる役所さん

彼が見つめる先には「貸しビルのマドンナ(草刈民代)」がいる。

貸しビルのマドンナ


今にしたらわかるんだけど、このショットが実にイイのは、

電線がわずかに見切れている

ところなのである。

この電線こそが、電車で会社と自宅を往復するだけのサラリーマンの日常と、その外側に広がるステキな世界を隔てる壁になっている。

だれもそうとは気づかないが、山手線にのっている会社員はみなそうやって日々無意識に、窓外の電線のケージと、かごの中の鳥になっている自分の境遇を重ね合わせているものなのだ。ぼくもそうだったし、映画ってのは、そういうことをあらためて気づかせてくれるのがステキなところだ。

そういうわけで、役所さんの日常と、マドンナが踊る世界をへだたているものの象徴がこの電線であり、いわば会社員の心をしばる鉄格子である。

ただし、これはあくまでタダの電線なのであって、鉄格子ではない。それを鉄格子のようなものだと思い込んでいるのは、惰性に流されている彼の心でしかない。

ほんのちょっとの勇気があればかんたんに乗り越えていける。実際、「ゆるんだトップロープ」みたいにマドンナの下に垂れ下がっているじゃないですか?

そして、役所さんはその勇気というか恋心に背中を押されて、ある日このトップロープをとびこえて、ときめきの世界に飛び込んでいくのである。つまり岸川ダンススクールに通いだすんですな。

コトバで説明するとこんなに長くなってしまって、グレタ・トゥーンベリの悪口までたどり着けなくなりそうだけど、でも映画は1ショットで、一瞬で、それを感じさせてくれるんだよなー。

でも、この「電線の良さ」をガキの頃はわからなかった・・・。だからもう一回みなおさないといけない。いや~映画ってホントにいいもんですね。ではまたお会いしましょう!・・じゃなくてもうちょっと続けよう。

このように映画というのは1ショット1ショットに監督さんのさまざまなメッセージが詰まっているので、電線1本でもおろそかにできない。

映画館の暗闇で集中して画面を見ていると、いろんなものが見えてくる。そして、映像が人に与えるインパクトというものにわりあい敏感になってくるのである。

なにがいいたいかというと、この電線みたいなものは、ぼくらの日常にあふれているということ。それが無意識のうちに心の中に「檻」のようなものを作り出して、ぼくらの行動をあやつっているということだ。

たとえば、よくニュース映像で、国旗が燃やされるシーンが映るでしょう。ああいうのがよくない。人々の憎悪が炎のイメージと無意識に重ねられてしまう。

さて、昨年録ったままで見ていなかったNHKスペシャル「 グレート・リセット 脱炭素社会 最前線を追う」というのを見たんだけど、2019年にオランダでシェル石油が「環境破壊により人権を侵害している」として「脱炭素裁判」というのを起こされたそうだ。

その是非はともかくとして、シェルをやっつけようという人たちは

シェル石油のシンボルマークの張りぼてを作って、それをバットで叩く

というパフォーマンスをやるのだ。こういうのがよくない。環境保護運動と暴力を無意識につなげる効果がある。

クルマに乗る人は給油のたびにシェルのマークを目にしていることが多いだろう。クルマは便利なものだけど、排気ガスを放出しているというやや後ろめたい気持ちはだれの心にもある。

そのうしろめたさが、シェルのマークに重ねられて、それを破壊すればいいという安易なイメージが刷り込まれてしまう。『Shall We ダンス ? 』の電線と同じで、気づかないうちに刷り込まれてしまう。

あるいは、80年代にジャパンバッシングというのがあって、労働者が日本車をバットで粉々にしている映像があった。あれは日米貿易摩擦のリアルとは何の関係もないのだが、貿易摩擦がはるか過去のことになってもあのイメージだけはこころに残り続ける。

さて、上記のNスぺでは、市民の草の根運動がよしとされ、さかんに「リセットが必要」「人類はリセットしなければ」と50分の間にいやになるほどナレーションされて、まるでリセットがいいことのようにおもわれされてしまうが、そもそも「リセット」というのは危険言葉なのだ。

ゲームでリセットボタンを押すと全部がご破算になる。リセットは修正でも変化でもなくて、ぜんぶを初期化するという意味なのであり、既存の秩序をゼロにするということは、言ってしまえば革命である。

市民の草の根運動というのはスナイパーの銃のように狙ったところだけを撃つことはできない。いちど始まれば雪崩のようにいいものも悪いものもすべてを飲み込んで壊してしまうのが市民運動だ。

そして、市民がリセットリセットと唱えながらシェル石油の張りぼてをバットで叩くとどうなるかというと、環境保護意識が高まれば高まるほど、人々は自分のアタマで考えることをやめて、即、暴力に訴えがちになる。

グレタトゥーンべリの背後にだれがいるかなど言うことを言い出すと陰謀論になってしまうのでやめておくとして、映画好きとしてすくなくともこれだけはいえる。

「著名なオペラ歌手と俳優の娘」という華のある子どもが国際会議場の外で政治家の偽善を訴えるという絵づらが世界に与える心理的インパクトは計り知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?