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お祭り騒ぎで社会を変えることはできない

ぼくは草の根運動がわりと苦手である。

最近、マイケルムーアの『華氏119』(2018)という映画を見たんだけど、これはアメリカ社会の病んだ部分を批判したドキュメンタリー映画である。

それを変えようとして、市民が立ち上がる姿が描かれている。社会問題を解決するために政治家に頼るのではなく、名もない市民一人一人がたちあがり連帯して、社会を変えていこうとする。

『華氏119』では、そういう草の根運動がいろいろと取材されているんだけど、ぼくはああいうのがちょっと苦手なのである。

そう感じる自分が正しいとは思わないし、たぶんまちがっているのだろう。それでも苦手なものは苦手なのであり、ニンジンの嫌いな人がいるように、ぼくは草の根運動が苦手なのである。

ニンジン嫌いにもピーマン嫌いにもたぶん原因がある。おなじくぼくの草の根運動嫌いにも原因があるはずで、たぶん、ぼくはお祭り騒ぎ自体がそもそも苦手なのである。お祭りだけではなく、式典のようなものもすべて苦手である。

人々が集団になって一つの感情に流されていく状態がイヤなのだろう。浮足立って、冷静さを失っている状態がイヤなのだ。

「華氏119」では、高校生が銃規制に立ち上がる様子が描かれている。かれらはSNSを使ってつながり、全国で草の根運動を起こしていく。しかし、運動が高まるにつれ、次第に自らの行動に酔っていく。

「自分たちは歴史を動かしているんだ。すごいことをやっているんだ」という意識に酔っていくのだ。

ムーア監督がそれを批判的に撮っていたのかどうかはわからない。しかし、運動の幹部をやっている高校生が「大人は全部だめだ」というの対して、ムーア監督が

でも大人にも多少はイイ点はあるぜ。なぜなら君らを育てたのはぼくらなんだから

とやや自虐的なユーモアを交えると、高校生の一人が

ぼくらを育てたのはあなた方ではない。これだ

といってスマートホンを指さす。

このあたり「かなり天狗になってるな~、危ういな~」とおもわされるんだけど、実際、彼らの運動でアメリカの銃規制が進んだかというと、ぜんぜんまったくなんにも変わっていない。一時的な高揚感があっただけで、何一つ変わらなかった。

それどころか最近さらに悪くなった。米最高裁がNY州の銃規制法をくつがしたからだ。

さて、この映画にはほかにもさまざまな草の根運動が描かれている。ウエストバージニア州の労働者たちや、ミシガン州の学校教師たちな。立ち上がった市民は全員エライとおもう。たちあがっていないぼくよりはぜんぜんエライ。

でもああやって、山火事のようにひろがっていく草の根運動で社会を変えることはできないのだ。

山火事は、めくらめっぽうに拡大していくだけで、ワシントンDCやウォール街の本丸に損害を与えることはできず、無害な市民の住宅を焼くだけである。

ところで、「お祭り騒ぎ」と言えば、最近日本でもひどいのがあった。ウクライナ戦争に対する市民感情の高まりである。

最近になってようやく、エマニュエル・トッドが

今の状況は、「強いロシアが弱いウクライナを攻撃している」と見ることができますが、地政学的により大きく捉えれば、「弱いロシアが強いアメリカを攻撃している」と見ることもできます。

「我々はすでに第三次世界大戦に突入した」

と言い出したけど、こないだまではとてもこんなことをいえる雰囲気ではなかった。トッドは、「ロシア嫌い」の高まりこそが第三次世界大戦の原因になると見抜いているが、まったく同感だ。

それにしても、ここ数か月の西側市民のウクライナへの過剰な肩入れは常軌を逸していた。こういう風になるからぼくはお祭り騒ぎがイヤなのである。

しかし、お祭り騒ぎは、これからも何度でも起こるだろう。人類が石器時代に帰るまで、この手のお祭り騒ぎが終わることはないだろう。

「そうやってエラそうなことをいうお前はなんにもやっていないじゃないか?」と言われるだろうが、そんなことはどうでもいい。好きなように思ってもらって構わない。

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