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きっちり

※tookapicによるPixabayからの画像

季節はうつろい。
時は流れ。
景色はその時々で表情を変えてゆく・・。
そんな風に自然というのは刻々と変化と揺らぎのようなもので定まっていない。

日本人と気質というのかな。時刻表通りに運行される公共機関。ありがたいものではありますが、 "うつろい" や "変化" という、自然の中にある "あいまい" な面からは遠のいてしまっている。そんな気がしてなりません。
もちろん季節や変化に影響があるとされる天体の動きというのは規則的であり、だいたい1年は365日と・・なんか余剰があるんでしたっけ?うるう年で調整する分のね。
きっちり機械のように動いている宇宙も曖昧な部分があって、それがアソビになっていて上手く回っている(のかもしれない)

日本人きっちりしすぎ

おそらく公共機関の運行のようなものはAIやらが人間の代わりになり、人間が神経張り詰めてやる必要もなくなってゆくんじゃないかと思う。
(まぁメンテナンスするのは人間だろうが)
なんというか。

「もうギチギチやる時代から脱却する変化が来るんじゃない?」

なんて思うんですよ。

江戸時代なんかの過去のことは文献や授業で習ったりする程度でしか知りはしませんが、今よりファジーに生きていた印象を受けます。
今より生き物として・・自然に生活していたんじゃなかろうかってね。

まぁそんなことが言われ始めてけっこう時は流れていて、それでも日本人は相変わらずキッチリして、社会全体が曖昧さを嫌っているようにさえ見えてしまう。

TAOタオ 老子

加島祥造氏の著書である「TAOタオ 老子」
その中に怠け者やなんかの "避難所" としてTAOの存在が書かれていたように記憶している。

最初に読んだ時は理解できず、「そんな怠け者を庇うような存在があったら、社会が堕落してしまうんじゃないか?」と反論したくなったものだ。

確かに、全員がサボってしまったら堪ったものではないが、誰一人としてサボれない社会というのもかなり危うさを感じさせる。

やわらかいもの

このことについても氏の著書の中に書かれていた記憶がうっすらある・・気がする。
何でもそうだが、ガチガチに固まった物というのは脆く、そして危うさを孕んでいる。なんかそのような文言があった。(たぶん)

外国の転職事情など
youtubeなど、SNSサービスが発展したおかげで世界の大きな情勢ばかりでなく、個人の情報まで伝わる時代になった。(ITすげ)

・・来日している外国人の話を視聴していると、けっこう自由に働いていたり、大学へ通っている話を聞いて軽い衝撃を受けた。
あまり「この歳だと大学へ進学」「この歳だと就職して」のような固定観念が無いような?薄いような?日本ではあまり馴染みの無いような・・「えー、そんな自由な感じでいいの?」そんな印象を受けることが多々あった。
年齢や制度に縛られていない感じ。

「あれ?ひょっとして日本は独特の固定観念に縛られ過ぎてる?」

そう感じる瞬間がけっこうありますね。

きっちりか・・。

電車が1時間遅れとか、バス?来るんじゃね?みたいな環境も困りますが、ちょっと日本は・・。
きっちりさせなくても大丈夫なところまできっちりし過ぎなのでは?
という疑問が湧いてきます。
多様性という言葉もよく聞くようになりましたが、多様性の区分や定義をきっちり法整備して・・・。なんていうか・・逆に多様化しにくくなってないかい?みたいなねー?

なんというか・・アンバランスな面さえきっちり抱え込んでいる人種なのでしょうか。

微妙な生きにくさというのも、そのへんから滲み出しているんじゃないか?なんて思ってしまう。

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