8/3補足②月将と月建そして歳差

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記事:松岡秀達
2021年08月03日 第一回『東洋占術を語る会』 補足その②

月将と月建そして歳差

2番目に月建と月将についてです。(1番目は『西方からのインパクト』です。)そんなに知られていないですが、中国では月の指標が2本立てになっていました。

1つは特定時刻における斗建の観測に基づく月建です。斗建というのは、北斗七星の尾の3星の連なりが指している方角をいいます。ほとんどの人は知らないと思いますが“建す”を“おざす”と読みます。この読みは斗建に由来しています。

北斗の尾の3星、つまり武曲、廉貞、破軍は北斗七星が描く柄杓の柄の部分を構成しているので斗柄と総称されることもあります。(貪狼、巨門、禄存、文曲は斗魁とよばれます。)

北斗七星は恒星天に貼り付いているので、斗建を観測するというのは、地球が自転で回転した角度である時角を観測することに還元されます。時角を角度でなく時刻で表すと恒星時になります。地球は自転しながら公転もしているので、恒星時の方が太陽時よりも進んで行きます。

(参考:恒星時-北斗柄の占いについて思うこと

つまりある太陽時に斗建を観測すると、斗建は1年かけて1周します。1周を12分割して十二支を割り付けると、ある太陽時の斗建は月の指標となるわけです。そこで斗建が収まっている十二支で月を決め、その十二支を月建とよびます。暦の十二直の建も斗建に由来しています。

月の指標のもう1つが月将です。月将は太陽過宮つまり❝Sun Sign❞です。その象意に食い違いがあるものの、❝Sun Sign❞を十二支で表したものが月将です。月建と月将は十二支の支合の関係になっています。

月将月建

古くは月建も月将も同じ日時で切り替わっていました。中国の六朝から唐の時代の六壬神課をよく伝えている安倍晴明の『占事略决』でもそうなっています。ところが地球の回転運動には、自転、公転の他に歳差運動があります。歳差運動によって自転軸が回転することで、天の北極・南極や赤道が恒星天に対して位置を変えます。そのため、トロピカルな黄道十二宮の起点である春分点も黄道上を移動することになります。

中国では歳差が発見された後も暦作成のための太陽や月の位置計算に歳差を組み込まないままでした。北宋の時代の沈括(しんかつ)は著書の『夢渓筆談』で歳差について何度かふれています。『夢渓筆談』巻七の『象数一』の第2段落で沈括は、

月将の取り方に二説ある。
一つは月建に支合する十二支を月将とする。もう一つが太陽過宮から取る。
本来はどちらも同じであったのに、歳差運動によって二つに分かれてしまった。
歳差によって、太陽は雨水になって諏訾、春分になって降婁に入る。
古い時代には、太陽は正月には諏訾、二月には降婁に入っていた。
もし月建の支合でとるなら立春で月将が亥、啓蟄では戌になる。
月建の支合で取ると太陽と合わない。
これを考えたら六壬で正しい課式を得るためには、月将を太陽過宮で取らないといけない。

と述べています。諏訾、降婁は中国の星座でしめされる天の区分に付けられた名称で、沈括の時代には太陽過宮が変化するのは、月建に対して半月くらい遅れるようになっていました。この沈括の主張が受け入れられたのか後代、月将は中気で切り替わるようになります。

もっとも沈括はラディカルな人で、月建の切り替えも歳差を考慮して変更しろと主張したのですが、それは終に受け入れられなかったようです。

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