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コメントについて思うこと

実は下書きに、コメント関連の書きかけがいくつかあるのだけれど、一から改めて考えて書いてみる。あくまでも自分はこう考えて、こうしたいって自己主張に過ぎないけれど。

コメントいただくことは、本当にありがたいと思っている。自分の書きたかったことを理解してもらえたって確信できたり、それ以上のものを汲み取ってもらえたって感じられると本当にうれしい。

そういうつもりでは、ないんだけど・・・・ってコメントもたまにはもらうことあるけれど、それは違う考えを示してもらったと思うことにしている。自分の文章のわかりにくさもあるだろうし、「何をどう感じる」には個人差があるものだから。マイナスな表現をされたとしても、そうなんだ~くらいにしか感じない。

基本的には肯定にしろ、否定にしろ、こんな自分の記事に関心を持ってくれて、書き込む手間をかけていただいてるので、感謝しかない。なので、いただいたコメントには、必ずお返ししなければと考えている。たまに、数日以上返信できていないコメント発見して冷や汗をかいたりするけれど。

できるかぎり、コメント下さった方の想いや考えを汲み取って、お返ししたいと思っているのだけれど、自分の勘違いや捉え方が甘かったりすることがあるかもしれない。でも、自分としてはいただいたコメントには真摯に向き合う気持ちは持っているつもり。
極々稀にどう返していいのか途方に暮れる時もあるけれど、ありがとうの気持ちだけはお返しする。コメントって、意外に深い気持ちのやり取り。

ただ、いただくのはとてもうれしいのだけれど「積極的に欲しいです」「下さい」までは望んでいない。コメントの真意とか、返信した内容で相手を傷つけていないか、こんな返信の内容で良いのか、とかいろいろ考えてしまうので。
記事を投稿するのは、勝手な自己主張なので自己責任。人にどう思われるかってあまり気にしないのだけれど、コメントは書いて下さった方へのメッセージなので、その方にどう届くかがとても気になる。

自分へのコメントは、いただければうれしく、真摯に向き合うけれど、お気遣いなくお願いします。ってところ。

そういう訳で、コメントや特定の方に向けての記事は本当に書きたい時にしか投稿していない。
コメントは、記事を拝読して強く気持ちを動かされたときに、ほとんど衝動的くらいな感じに書いてしまう。自分が感じた伝えたい想いだけ書いてポチする。コメント書いて躊躇して削除することもある。

自分のコメントは、悩みながら書かれたであろう記事とか深く共感した記事とか、目から鱗の学びをいただいた時とかに書くことが多い。
もう少し気軽に交流したり、コメント歓迎って思ってる方も多いかもしれないけれど、自分はつい慎重になってしまう。
慎重になってるつもりでも、やらかしちゃった、って時もある。コメントのやり取りが過剰になりすぎると疲弊するし負担になりやすい。ブログ歴それなりになって今、落ち着いているけれど、過去には、振り回されて自己を見失ったり、リアルが回らなくなるみたいな、苦い経験がいくつもある。

多くの方々が言ってる通り、記事本体だけでなくコメント欄から人間性とか考え方が垣間見える。リアルなその人とは当然違うだろうけど、何となく人格は感じる。コメントは相互のコミュニケーションなので、記事を投稿する以上に配慮が必要なんだと思う。

他人様のコメント欄を眺めるのはすごく好き。参加することなくても、あるあるの共感があったり、そういう考え方もあるのか~なんて学びもあるし、時にはズレたやりとりとか誤解の応酬みたいな相互作用とか反面教師もいらっしゃったりして興味は尽きない。

コメントしたい記事、しやすい記事は一致するとは限らないし、コメントしやすいnoterさん、敷居の高いnoterさんがいる。だけど、コメントし難いから読みにくいではないし、コメントしにくいnoterさんのほうが、学べたり感動できる記事があったりする。
自分のnoteには、どんなコメントいただいても大丈夫だし、人に対して最低限の敬意さえあれば、他人様のコメントはほとんど容認のスタンス。どんな人でもそれぞれの想いがあるのだから、自分に都合良い言葉だけ欲しいは通用しない。コメントって良いことばかりじゃないよ、って割り切りも時には必要になる。

ここまで読んで下さった皆様。どうもありがとうございました。お互いに自分のペースでnoteでの活動が楽しめますように。

何度も書きますが、私がスキつけた記事は拝読して「スキ」って感じた記事です。スキ制限等いろいろあるかと思います。こちらへのスキ、コメントは任意で大丈夫です。お気遣いなくごゆるりと。

このような勉強会があり、参加いたしました。積極的なコメント活用の視点もありかと思うのですが、上記のとおり私は慎重派であります。
コメントに人柄が現われるのは、本当にその通りと思っています。交流は自分が管理・把握できる程度に留めて細く長くの継続を目指しています。
読まれること、知られることより、自分勝手に書きたいことがメインです。結論は毎度毎度同じで代わり映えしないけれど。