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雪に埋まる

 どこに所在があるのかが分からない、男の頭の中はそれで埋め尽くされているのに、身体はまるで命令を聞くことしかできない機械のように無意識に雪を掻き分け進んでいる。

 木々は魔女のように高笑いし、軟らかい雪は時に弾丸のように彼を襲う。まるでミツバチに相対するスズメバチのような、そんな気持ちを男は抱えているのだろう。少し険しい表情をしながら男はどんどんと山の奥、奥へと進んでいった。

 ふと男は振り返る、そこには大きな轍がある。彼の進んできた道だ。獣道のようにそれは雪をなぎ倒し出来ている。しかしそこにはまた新たな雪が積もり、男の軌跡をまるで連続殺人犯が証拠をある程度残さないようにするかの如く隠す。男はそこにあったはずの何かを眺め、そして興味を失ったかのようにまた虚ろで険しい目を前へ向け進み始めたが、すぐに歩を止めた。彼の眼前には集落であった場所があり、朽ちた家がその面影を残していた。彼はついに辿り着いたのだ。

 男は集落を歩く。そこにはかつて人が住んでいた証と今を生きる動物たちの事実がともに雪に埋まっていた。

 「人はいない」男が振り返るとそこには冬眠していたはずの熊がその逞しい二本の足で男の背後に立っていた。男は少し驚き、腰を抜かしかけたが、どうにか体制を立て直し、その険しい目で熊を睨みつけた。

 「人はいる、ここに」

 「ここに、とはお前の事か?」熊はまるであざ笑うかのようにそう言うので彼は首を縦に振った。

 「そう言うことは言っていない。それは最も人間らしい考えで、最も愚かしい考え方だ」

 「さて、どのあたりが?」男は首を傾げ

 「何も考えていない所が、だ」熊は嘲笑をその顔にはっきり浮かべた。

「お前ら人間はまるですべてを支配して、己が自由意志の下に生きていると勘違いしている。いやそうではないという人間もたいていは自分で作った偶像に縋りついているのに過ぎない。それは結局のところ他の人間と変わらず、心の奥底にある人間至上主義の下に生きているのに過ぎない。だから人間は考えられない。いや正確に言うと本来考えられるはずなのに考えたふりをしているのに過ぎない」

「それなら、君たち動物はどうなんだい?君は人間を馬鹿にするけれど、君たち動物は結局のところ五感と本能だけで生きているじゃないか、そもそも君はそう言うけれど僕は全く納得していない。だって君たち動物には火も使えなければ、言葉も使えないじゃないか、それのどこが考えなしになるんだい?」

 変な話だ、と男は思った。何故熊とこんな話をしているのだろう。

 「それが問題だと言っている。我々には火は必要ない。我々には石油も、文字も本来必要ない。言葉もだ。簡単なコミュニケーションが取れればそれで十分だ。しかし人間にはそれができない。いや正確に言えばできなくなった。こうやって会話し、文字を手に入れたことによって、思考を放棄したのだ」

 「思考を放棄した?」

 「私が普段どうやって生きているか知っているか?私は常にありとあらゆる学びを純粋な環境から得ている。そしてそれを利用し生き延びているのだ。いいか、これが学びだ。学びなど本来与えられるものではない、身の回り全てが環境なのだ。そして我々には役割がある。それは生きていれば自然と分かることだ。だからそれに従い生きている。だが人間にはそんなこと分からない。何故ならお前たちは学ぶために作られた環境で生きているからだ。それは純粋な環境ではない。純粋な環境ではないということは、それは純粋な学びではない。それは一種の詭弁だ。だから人間は文字を必要とし、言葉を必要とし、火を必要とした。本来必要のないはずの」

 男は沈黙し、目を閉じた。瞼の向こう側ではきっと熊が少しずつ歩みを進め、男との距離を詰めているだろう。そしてそれを悟らせないように、風はまるで故障したオーディオ機器のようにその気配を掻き消す。

 「そもそも、動物と一くくりにすることが分かっていない証拠だ。動物とは何だ?犬か?猫か?熊か?いやツキノワグマか?さてなんだ」

 男はなおも沈黙し、目を開けた。雪が男の息遣いを掻き消し、その空間はまたとない静寂に包まれていた。男の目の前にいたはずの熊はもうそこにはいない。代わりに男の身体はもう腰まで雪が積もっていた。 

 もう身動きが取れない。そう悟った彼はまた目を瞑る。熊の声が木霊していた。

 

 “純粋な環境から学んでいる、常に”

 

男の身体はもう胸まで雪の中だった。それを見て男は胸を撫でおろす、やっと帰ってこられた。男の涙はまるでガラスのように固まり、弾け飛ぶ。耳元でそっと「お帰り」と熊のような声がした。「あぁ、母さん」男は沈黙を破り最後に一言を溢し、雪に埋まった。男はついに集落に帰り、集落の一部となった。

 

一方その頃、熊はと言うと川で喉を潤し、また集落に戻ると男のいたであろう場所の雪を掻き、獲物を見つけると頭からかぶりついた。辺りは一瞬赤く染まるが、雪のその白さが彼らの罪を払うように、その赤もまた空から降る純潔に塗りつぶされていく。

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