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EOからの手紙7・身の上話

幽雪samaへ

1993 11/23 朝/7:00

あなたの手紙を読んで少し、
たまには私も身の上話をすることにしました。

ところで、私はものすごく矛盾しているかのような動きをします。
ある時はあなたという人間の過去などどうでもいいと言ったり、ある時は尋ねたり、あるときは質問など無意味だと言うと、別の時には、されるべき重要な質問がある、などと言いはじめる。どだい、瞬間瞬間が動く、その動きを論理や、一定の矛盾のない言動にするなどという事が不可能です。
だが、世間では、それを「言動に矛盾のないよいこと」だと言う。
しかし、そんなことは生命の中で、あり得ない。
昨日が晴れても、今日が曇っていたら、人は文句を言うだろうか?。
言わないですよね。なのに、ひとりの人間における統一性のなさは非難される。
気まぐれ、気違い、我がまま、精神不安定と言われる。
しかし、自然とはそのようなものだ。

社会は農耕文明以来、自分達の村の秩序を規制するために、さまざまな統一性を個人の言動にまで押し付けてしまった。
こうした規制は、村の人間の肉体が生き延びるためではあっても、
しかしそれは決して我々の本性から出た秩序ではない。
文明は、そもそも、その最初から、仏法と言う点では道を踏み外したとも言える。
このように、作為的な秩序は、やがて掟と呼ばれ、現在の法律に至った。
これは、本来は互いに暮らす者たちの肉体の安全のためのものだった。
しかし、いまいちど、我々は見るべきだろう。
そんな秩序は、、自然界のどこにもないのだ。猿などの一部の哺乳類以外には。
そんな人為的に作られた法律など、どこにもないのだ。
なのに、自然の彼らは、ただの一度も自然のバランスを崩した事がない。
自然のバランスを崩すというと、なにやら、それは巨大な爆発をやらかしたり、
廃棄物を出したり、ひどく科学的な産業廃棄や科学的な汚染の事ばかり人々は言うが、
そうではないのだ。
たとえ何万年も前の、原始的な村の生活でさえも、もうそこに法律があったら、それだけで自然との調和は乱れている。小さな小道を作り、橋を作るだけで、もう何かが狂い始める。ところが、ここにもっと奇妙な事がある。
では、橋を作るのがいけないのか?、人間の工夫する知恵がいけないのか?。というと
そうではないのです。問題は、その橋を作る場所の選択や動機なのだ。
極端な話になりますが、
一人のブッダ(釈迦という意味ではありません)、
そのひとりのブッダが村に何か作ったら、それは一見なんの役にも立たないものに見えても、それは調和している。ところが、村人が何やら、とても便利な農耕器具を作ったとすると、それはとても有害なものになる。
問題は作り出されるものがなんであるか、廃棄されるものがなんであるか、誰が核兵器を発射するかではなく、何がそうさせるかなのです。
極論でもなんでもない事を言いますが、
もしも自然の摂理、あるいは仏性のおもむくままに生きていたら、
核兵器のボタンを押す、ということも充分にあり得るのだ。
それは、まったく善悪の問題ではないし、人間中心の問題、地球中心の問題でもない。
極論すぎるだろうが、それがTAO、または禅の意識の現れなのです。
あなたには、このことは分かるだろう。
だが、私はこんな話はあまり他の人達には出来ない。

私は門下の一人にこう言ったことがある。
『法は決して人間のためではない。だから、もしも人類すべての人が法と共にいたら、
ある日、我々は、滅びてこの惑星から消え去る、というのがその法の選択になることもあり得る。法は、我々を生かすとは限らない。もしも本当に法の中にいたら、
それはどんな決断、どんな結末になるかは、まったく未知だ。そして、その決断は、ある場合には、人類が絶滅したほうがいいという決断である場合も充分にあり得る』

だから、といって我々ブッダはヒトラーになるわけではない。
だが、絶対にならないわけでもないのだ。
すべての要点は、物事の結末や過程ではなく動機にある
ところが、、さらに不条理なのは、
完全な法は、『無動機』だということだ。
そして、逆に人為の動機は、かならず「損得勘定」がある。
だから、個人の利益の追及ばかりがエゴと呼ばれるわけではないのだ。
なぜならば、現に、集団としての会社や国の利益の追及が争いを大規模にするからだ。
地球をもしも大事にすればそれは地球人の誰もが「貴い理念だ」と言うかもしれないが、
これは宇宙の中では、もうたいそう立派なエゴだ。こんな極地の惑星の大切さなど、
しょせんローカルな問題にすぎない。宇宙の中ではただの地方行政の問題にすぎない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だが、法は、もともと人間本位じゃない。
だから、人間や人間中心、地球中心の損得からものごとをやったり、法律を作ると
それが、どんなに長期的に人間に貢献したりどんなにたくさんの人々に喜びを与えても、それは完全な間違いの結果となる。
何が間違いの基準かといえば、法ということでです。
しかしこの、絶対だのと『妙に、えばりくさった、この法』とは一体なんなのだろう?。
それは自然の法則や法律だろうか?。神とやらの命令だろうか?。
いやいや、そんな変な宗教的なものじゃない。
それは全然難しいことではない。
なぜなら、どんな昆虫さえもそれに従っているのですから。
法、、それは、ただの無心だ。
だから、知恵を付け足せば付け足すほど法から外れてゆく。
この場合の知恵も、これまた定義が複雑です。
というのも、人間の知恵も2つあるからです。
ひとつは、生き残ろうとする恐怖が生み出す、思案による知恵。これがほとんどのものだ。もうひとつは、ブッダたちの内発的な知恵がある。
そして、そういうブッダの知恵は、おうおうにして、不条理で矛盾だらけだ。ところが、結果的には、いつも調和を生み出す。
ブッダがコンピューターを生み出さないということではないし、ブッダが科学を否定するということではない。ただ、その根源的な操作の動機に動機が関与していない
なぜ、そうしてしまうのか、まったくブッダは知らずにやる。
彼は、自分が自分の成果を見て、その成果を回収したりする事に全く関心がない。
だから、ただひたすらやるし、場合によっては、ひたすら人を殺すかもしれない。
これは、ある意味では、もうほとんど、動物のような意識だ。
だから、法は決して人間的じゃない。人間らしさは私は否定しませんがね。
人間には、ひとつの「動物としての人間らしさ」があるからです。
しかし、人間性だの人間の心だの、そういう区分で、私は他の生物と人間を区別したくない。むしろ私は、よほど動物や植物は、意識、本性、いまここにいることにおいては
どんな禅師も、かなわないと断言する。

さて、こんな話をいくらしても、どうしたらいいのか分からず、
我々は途方にくれてしまうだけだ。
かといって、自然を学者のように「理解」したからと言って、我々に理解出来る事など実に狭くて限られている。自然科学などなんの役にもたたない。便利に生活しようとして、変な薬品を作っては、今度は無公害などと言い出して、また変な無公害製品を作るという悪循環以外に、しょせん科学は能がないのだ。いつもいらぬものを最初に作っては、その後始末に、またもや、いらないものを作り出す。

さて、こんな話はやめようね。きりがない。
そうだ、身の上話のことだった。・・・・・・・・・
かと言って、どこで生まれて、どう育ったという、具体的な話でもない。そんなものは、たいして問題ではないから。

あの私の内面の核爆発の日、そしてそれ以前、その前後、、そういう話にしよう。
原稿では、方便としては、出て来るが、私はあんまり私個人の事を書きたがらない。
誰もがそこを通る道ではないからだ。
さて、人が何かを捨てるにはふたつある。
ひとつは、捨てようと、<心に決めて>捨てる。
もうひとつは、『持っていられなくなって落とす』。
ちょうど、手にもった金属が過熱して、それ以上もっていたら、皮膚が焼け付くかのように、熱して、そして手を離してしまう。これが私に起きたことだった。
そして、それは自分で過熱してしまったし、また世界そのものへの観察がそうさせたし、事実この人間世界は、私から見て、完全に狂っていた。
そして、もうひとつの方便が禅である。
そもそも、なぜ手離す必要があるか、そもそもそれすらも分かっていない新参者を導師は、わざわざ手放さないと苦しむように、その手にした金属を過熱する。
わざわざ、苦痛を、ご丁寧に与えるのが禅だ。
座禅というのも、2つの目的がある。
ひとつは、脱落してしまうための静寂。
しかし、もうひとつは、苦悩の過熱作業である。
座禅と言っても、ふたつあるのです。
通常は、脱落のためである。
しかし脱落というのは、もう本人が、脱落しなければ、狂うか、心の痛み、悩み、矛盾への混乱で爆発寸前になっていればこそ意味がある。
しかし、新参者は、そもそも「なぜ手放すのか」、なぜ放下するのか、そして『何を』放下するのか分からないものだから導師はその『手放すべき金属=すべての心』を過熱する。しかし、手放すべきものは=『すべての心』である、ということに行き着くのに長い時間がかかってしまう。すべて、ということは、本当にすべてなのだ。
例外なんて、、ただのひとつもない。
だから、私は、いつもいつも、サニヤシンにも禅の世界の人にも、こういう
『光明という、そこには希望なんてひとかけらもない。そんなものは心のものだ。
ということは、禅の希望もそうだし、その他の修行方法もそうだ。
そして修行の意味など、そんなものは迷い、心や人間の勝手な産物だ。』と。

どうしても、どんな座禅者も、無心と言いながら、つごうのいい『<例外>』を作り出してしまうものだ。
しかし、完全な無心とは、例外がない。ということは、それは馬鹿の境地なのだ。
もう、なんにも、わからない。馬鹿そのものだ。
何がいいのか、悪いのか、さっぱり分からない。
私が今、たったひとつなんとなく分かるということは、ひとつしかない。
それは、EOの死人禅、もしくは、普通の禅が、
どうやら、極限の苦悩や狂気にいる人にとっては、楽になる道になりそうだ、、
ということでしかない。私はその中に世間的な改革だの正しさを断じて持ち込めない。
そんなことをしたら、また比較や分別の苦しみが始まるからだ。
だから、私の脱落は、人間からの脱落だったし、地球からの脱落だったし、宇宙や存在そのものに見切りをつける脱落だった。どうして生きているのか、今でも不明だ。
いまも不明だ。それは私が死ぬまで不明である。私には、生きているということそのものも関心がなくなってしまった。だから、死ぬことにも関心がない。
だから、こうした、意識状態は、善悪を決して心に生み出せない。
いつも、いつも、そういう分別に無知になってしまう。
そこに分別を落とそうという修行などは私には何もない。
だから、雪渓老師の言うように、また、あらゆる禅師の言うように、
大悟とは、「一発で終わり」である。
しかし、その一発、一撃、原爆は、なんなのだろう?。
物凄く、ヤバイたとえを使いますね。
とてもじゃないが、広島や長崎では言えないたとえですよ。
ここだけの話、話の方便ですよ。
雲水は頭を剃る。毎日座禅という剃刀で頭という心を剃る
ところが、それは、毎日また生えて来る。だから、毎日剃る=座る。
しかしブッダとは、被爆者なのだ。
自己の迷い、苦悩、狂乱の爆発の放射線で、坊主になってしまったのだ。
そして、その心の毛は、二度と生えて来ない。だから剃るなどという座禅は必要ない。
こりゃー、とてもじゃないが、広島では言えないたとえですが、こういうことです。
一発で終わる。・・そしてそれは『無心』という後遺症を残す

何か、私には悟りというのは、その爆発の日から直らない後遺症のように思える。
何かが自分に付け足されたという感じが全くないからです。
たとえば、心霊能力やら、なにやら、愛やら慈悲が付け足されたら、私は大きくなって変化したと思うことになるだろう。しかし、どこを見ても、なにかが付加された痕跡がない。・・逆に、何かが、どうも、何かが、『ない』。消えてしまったようだ。
心が完全にまったく消えたら、生きていられないから、消えたのは心でもない。
たいていは、無心な時間が多いので、心は以前の何千分の一にも、減ったのは確かです。
しかし、本当になくなったのは、なんなのだろう?。
それはね、実は『何かというもの』ではないのです。
たとえば、自己をなくした、というのでもない。
自我が消えたのでもない。
雑念が消えたのでもない。
そうではなく、それらを生み出す、本当の元が、ほとんど消えてしまった。
なくなったもの、、それは、いうなれば、意識の『動き』なのです。
つまり、いつも、私はこうして原稿を書いても、あるいは、書くのを止めると、
空漠としている。まるで風呂あがりの人間みたいに、呆然としている。
何かが、頭がパーになっている。
ところが、それは実は、意識が全く、何も見ようともせず停止していたのだと、しばらくしてから分かった。脳がどこか変になったとか、気がふれたとか、そういうことでもないし、また、ぼーっと、不注意なのでもない。
考え事をしてぼーっとしているのでもない。
結局、この状態を、私は悟りだのという言葉でない表現をすることになった。
それが『停止点』である。
物理的な用語がいいと思った。概念を必要とする用語ではなく。
『停止』ならば子供でも理解できる。
それは、「止まる」ことだ。「ストップ」だ。
それは、概念や教えではない。状態のことだ。これは訳されても決して特定の国によって誤解されたりしない。止まるというものは概念ではなく、<描写の>単語だ。
ただし、問題は、『意識が止まる停止点』までを本人が<体験>できるかどうかである。
ところが、この「意識」という用語を言うと、とたんに<とりとめ>がなくなる。
そもそも意識がなんであるかなど、明らかにするのは、非常に困難だ。
「意識する」という日本語は、たとえば「人目を意識する」というように、気にするとか、こだわるとか、注意を向けるという意味だし、英語のニュアンスだと、「倫理意識」が足りないだのと、それは思考、イデオロギーのことを言う。西洋では「ただの意識」というのではなく、『なになに意識』という使い方がされる。それは『なになに思想』というニュアンスだ。一昔前の女の子が肉体の線を意識してピチンピチンのスカートや、足の露出をファッションにしていた「ボディコン」などという言葉もそうだ。
ボディコンとは、肉体への意識(コンシャスネス)だ。
しかし、ダルマ、法、ブッダたちの言う意識とは、
内容なき、ただの意識だ。
これを空と言う。(それは、いわゆる無とはちょっと違うけど。)
ただの意識は、ただそのままだ。
むろん、それは無意識ではないから、何かやったり、何か見たりするが、
そこに痕跡が何も残らない。
だから、それは、よく『鏡』にたとえられる。
しかし、意識、、それは、なんなのだろう?。
それは、実は、全然動いていないのだ。
我々は、注意したり、気がふっとんで、何かに聴き入ったりすると
意識がそっちへ、あるいは意識が耳の方に囚われるものだと思ってしまう。
しかし、雪渓老師や古仏のブッダたちの言うように徹底的に、何かになりきって、
あるいは、ただひたすらの行為には、対象との『ずれ』がなく、
そこには、時間が生まれない。比較とかは存在できない。
そうすると、普通の人達の言う「注意力」とは、まったく違う『意識性』がそこに残る。
だから、禅はそれを『ここ』とか『これ』と言う。
それは、動いてなどいない。まったく我々から一歩も出家もしたことがないし、
生まれてから死ぬまで、まったく「我々そのもの」と不可分だった。
もしも、禅が「動く注意力の意識」を示していたのならば、それは『あれ』『それ』という言い方をしただろう。ところが、『これ』は『ここ』に在る。どこへも動かない。何をしていても、失われない。失ったと『勘違い』は出来るが、失う事は出来ない。
それは、ちょうどあなたが、
ぼーっと、物思いをしていて自分の肉体を忘れることは出来るが、
肉体そのものは、なくならないのと同じです。
それは、思い出すとか、忘れる、自覚するしないにまったく関係がない存在そのものだ。
夜、あなたが無意識になっても肉体はちゃんとある。
それと同じではないが、『似た』意味において、意識とか存在とか主人公は
ただ在り続ける。
けっきょく、それを体験したものは、それを『なんでもないもの』としか言えない。
『何か』ではなく、なんでもないもの・・・
『自分そのもの』か??・・・しかし、それは自我としての自分ではない。
記憶の自分や、自分についての何かではない。ただのこれ。
そこにいるあなたの意識そのもののこと。そこには、人格も個性もなにもない。
いやいや、私は個性や人格を消せというのではありません。
だが、人格や記憶は『周辺』のものにすぎない。
つまり、人格は、あなたの主人公の着る『衣服』だ。
だからと言って、何も裸で世間を歩く必要はない。個性も人格も着ればいい。
ただし、あなたの本性は、裸のままだ。
それは、無人格、無個性のままだ。

だから、「あなたは私なのだ、私はあなたなのだ」と、いつも私はあなたたちに言う。
EOという青年は、ときおり禅という衣を着る、
または、インド的な法衣の方便を着る。
また、唐突に宇宙服を着たりする。
かと思うと、落語家の衣を着る。
このEOという青年が、いちいち書くこと、言うこと、話題を見ていたら、
それは、まるでひとつのファッションショーのようなものだ。
しかし、私は、そのどれでもないし、
私はたったひとつも、『私の衣装』をもってはいない。
私の衣装は、全部借物だ。
知識も、方便も、そして人間としての私の個性も、なにもかもが、借物だ。
何もかも、それは説法というショーのための、貸衣装だ。
私があなたたちに見て欲しいのは、その私の着る衣服ではない。
私は、実は『裸だ』ということを見て欲しいのだ。
だから、私の説法とは、ファッションショーではなくて、まるでストリップだ。
私は、何か、えらそうな事や悟り臭い話題を言い出す。
すると、あなたは私の衣服に囚われる。
だから、私はだんだんその人格や説法や話題という衣服を脱いでゆく。
最後は、私はパンツいちょで、こういう。
『これだ。ただこれだ。それだ、ただそれだ。』
そして私が最後のパンツを脱いだら、
その舞台にあなたが見るのは、
ほかならぬ『あなた』なのだ。
それは、私やあなたの区別などない。我々は、生まれて裸、死んで裸。
そして衣服の下は一生ずーっと裸だったのだ。
原稿を読んで、その口調に怖がりながらも私に会いたいと思う人がたまにいる。
だから私は、いつも言う。
『僕はあなたそのものじゃないか?。あなたのそこに、いつでも、ちゃんといるよ』と。

ときおり、実際に会う人は、私を見てズッコケる。それはどこからどう見ても、ただの
にぃちゃんなのだ。そしてその内面奥深くも、
私は、ただのにぃちゃんなのだ。
これが私の身の上話である。

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