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EOからの手紙13・法友

法友

私に言わせれば、死人禅門下であっても
最も困難な動中の工夫とは、それは
しゃべること、あるいは他人とのかかわりにおいて
『これ』が顕在化しているかどうかである。

というのも、我々のいわゆる煩悩、迷い、苦悩は、
すべてそこで生まれたからだ。
すべてそれは社会で植え付けられたり苦悩に発展した。

しゃべることの中には、およそその人の思考の動きのすべてがあらわれる。
歩く、食べる、こういった独りっきりの動作ならば、たんたんと出来ることは可能だ。

しかし、しゃべるという事、あるいは他人とかかわるときに、
『これ』そのものの現れと共にいるのは、非常に修行者にとって困難だ。
そこでは、いわゆる習慣的な思考や癖が戻りやすい。
また、その世間ではさまざまな偽善、気遣い、体裁、羞恥心、虚栄、傲慢、
誇張、愛着、嫉妬、嫌悪や利害関係の渦の中にいることになる。

そして、しゃべるという行為は、修行者にとっては、いらぬことだが、
社会というものは、すべて言語コミュニケーションに援護されて発生している。
ほとんどの人々は、すべて言葉によって動いている。
あらゆる争いも言葉から始まる。それはいつも会話からだ。
またあらゆる縁もそうだ。
暴力や、戦争は、本質的には別に言葉から始まるものではなく、純粋な生存本能の産物なのであるが、弱肉強食だけで社会が動いていないという点が、大きく自然とは違う。

動物たちと違って、人類はそこに言葉で嘘や正当化を持ち込む。さらには宗教的洗脳や政治的洗脳が加わり、混乱はますますこじれてゆく。
これらもまたすべて言葉、会話から始まる。

言葉によって思考は組み立てられる。
それは迷いそのものではないが、
迷いを途方もなくからませてゆく。
世間の人も、修行者も、言葉には実に弱い。
誉め言葉であれ、けなし言葉であれ、いい事だ、悪い事だ、とか、いい子だ、悪い子だのと、我々には、その言葉を聞いたときに感情が想起されるように、徹底的に教育された。ひらたく言えば、、
禅師をけなしてみればいい。
否定、非難、やっかいな話題、あるいは誉め殺す。
こういうことをやらかしてみて、人の心を眺めるとよいだろう。

食事とか、歩くとき、すなわち、くだけた時に人は性質や境涯をあらわにするものだ。
しかし、もっともその境涯があらわになるのは、
座禅や、作務ではなく、
実は、もっとも社会的で、世間的で、もっとも混乱した場所で、その者がどう在るかなのである。その最も迷いの発生する場所、それが会話である。

だから、私は言う。
そもそも、人々は、聞くということすら出来ないのだと。
会話という中には、心理的な社会性のすべてが、凝縮している。

だから、私は門下に問答をしかけたり、困難な状況を与えて見解をチェックすることは
ほとんどない。というのも、
私は、彼らとしゃべっているだけで十分に彼らのすべてを観察できるからだ。

禅師であれ、世間の人であれ、
一体、彼らが「どこから」しゃべっているのかである。
ほとんど、それは自分というものの防衛、主張、誇張、相手への支配欲、自分への自信や不満、恐怖からである。
だから、一言何か言わせれば、見解など、簡単にあらわになるものだ。
底の抜けた人達は、本当に素直にしゃべる。彼らは本当に正直である。
話題というものは、私が人を見るときには関係ない。
話題がどんなに複雑だったり高尚だったりしても、むしろ、そういう話題こそ、
その者の本音が出やすい。
話題は私には関心がない。そうではなく、
その者の、しゃべりかた、聞き方、思考のパターン、見解の状態、意識性、前後裁断の状態、そして無為に楽にしゃべっているか、あるいはしゃべっているときの手足の動き、目付き、そういうものを私は見る。
なぜならば、そこに彼らの『在り方』が現れているからだ。

そこで彼らが何を考えているか、主張しているかは、私の判定の対象ではない。
どう『在る』かなのである。
道に在るものは、話題に関係なく、落ち着いている。
そして、くだけた冗談も存分に楽しむだろう。
しゃべる中には、おおよそそのものがこだわっているものが暴露される。

ある日、私は一人の僧侶と我家で生活を共にした。
初めの2日、我々はよくおしゃべりをした。
そして修行のテーマも私はいちおう与えた。
だが、数日後、このままでは、何も共に得るものがなく、
ただ数日を、おしゃべりを楽しみ、そして一定の行法を続けるのみに終わると感じた。
何かが、展開しなければならないと感じた。すなわち、彼は本気で私のもとへ学びにきたのだから、禅学などというつまらぬおしゃべりから、本腰を入れなければ時間がもったいないと思った。
そこである日、私は、その僧侶を「つけあがらせる」ことにした。
どうやったら、つけあがるか。それは彼にしゃべらせ、彼本人が自己矛盾したおしゃべりをしている事を、突き付けなければならない。
だから、わざと私は、彼から彼の持論や願望を引き出すようにそれとなく誘導尋問した。

ある瞬間、私の中で耐え難い、法の伝達への欲求が現れた。
彼は禅に「ついて」しゃべっている。
だが私は禅の『中にいる』。
私が伝えたいのは、
私の意見ではなく、私そのものなのだ。
私のこの意識の『住家』なのだ。
彼は「彼の思考」からしゃべっている。
私は、状況と無心からしゃべっている。
さて、『これ』についてではなく、『そのもの』をなんとか伝達しなければ・・、、
そういう思いがある時、私に起きた。

そこで私は彼が、ただの思考する人になる瞬間を待った。
ある時、ひょんなことから、彼は大悟や大悟者についての話をしはじめた。
私もそれを味わって聞いていた。
私はふとこう尋ねた
EO『では、その悟りとはなんだか分かるかな?』
僧侶「いいえ」
EO『でも、あなたはそれを求めているのですよね。それとも本当は他にもやりたい事があって、悟りだけを求めているわけではないのですか?』
僧侶「いえ、悟りを求めています」
・・・
この彼の言葉が本気だと確信した瞬間、私は詰め寄って彼の脳天を適度な力で、
だが、ほどよく強く2度、ひっぱたいていた。
それは、ただそうせずにいられなかった。
確か、私はそのあとは、こんなことを言ったようだ。

EO『その痛みを感じているのは誰か?。たたかれた事を見ている本人はだれなのか?。
たたいた、私の事をあーだこーだと詮索する前だ。その前は誰なのか?。
痛みがただそこにあるのであり、たたかれた事がただあるのであり、
見ることが見ているだけだ。聞くことが聞いているのだ。それはあなたじゃない!。』

・・・・・・・・・
さりとて、そんな事で、一瞬で大悟するわけもないが、
この一件から、やっと私と彼は本腰を入れた生活を開始できた。
たしか、ひっぱたいても、まだ何か足りない気がして、
私はその後で一人で座禅している彼にこう言ったような気がする
『落語家が話を進めていて、その最後のオチを知らないんじゃ、全く話にならない。
そんなおしゃべりになんの意味がある?。
客に「で、オチはどうなるのですか?」と聞かれて「知りません」じゃ話にならん。
だから、明日から、禅の話題は一切なしだ』

などと妙によく出来たたとえを言ってしまったようだ・・・。うむ・・。

*********
話が、随分脱線してしまった。
だから、、
一番困難な工夫、試練は、
他人とかかわるとき、しゃべる時、だ。
動作にもむろん、その意識状態は、あらわれる
だが、しゃべる中には思考があらわれる。
そこで、はじめて、その者が
思考を超えたところから、思考を自在に使いこなしているか、
あるいは言葉や概念に未だに支配されているかを私は見る。
特にその導師の語りや、日常会話が、私にとっては、もっとも彼らを観察できる瞬間だ。
すなわち、無心という悟りが、
思考や言葉という迷いをどう料理するかだ。
だから、導師が語るとき、それは私にとって、彼らのお手並み拝見の瞬間である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そこで、死人禅門下の課題のひとつは、会話、すなわち思考がまさに動かざるを得ないその状況で、しゃべりながら、なおも頭上留意点を保持し、
それによって、こだわらない中から、そして状況の必要性と一体になって語り聞くということだ。しかし、そもそもそんなことは意図的にはできない。
だから、会話、しゃべること、、そこでこそ、
馬鹿になり、工夫を忘れ、まず、しゃべったり考えたり、意見を言う前に、
ひとつの静寂として存在することだ。その為に頭上留意がある。そこにいて、
もしも、しゃべりたくなったら、しゃべればいい。
だが、しゃべりたくなかったら、しゃべる気がしなく、動きがおきなかったら、
相手にどんなに失礼でも、無理にしゃべってはならない。
ここに持ち込まれるものは、社会の礼儀ではなく、仏法の礼儀なのだから。
すなわち仏法の礼儀とはただひとつ、それは
『ただおのずと生まれる言葉、あるいは沈黙』である。

だから、私は門下によく言う。
会話の時が頭上留意するのにいい瞬間だ。
勿論ギャグを言ったりして、存分に笑い、砕けて我々は話を楽しめばいい。
いつもいつも絶えずそんな留意の工夫はいらない。
だが、しぜんに会話のときには、軽くその頭上留意が自然に維持されていることが望ましい。会話が途切れた空白になると、その留意に戻ってしまう習慣がつくだろう。
その落ち着きの中から、次の会話が生まれるとき、それは一番自然な会話になる。

だから、私といるときには、
話が前後脈絡なくなってよい。
私の質問に答える必要もない。また答えてもいい。
私の言葉を理解しなくていい。ただあなたの頭上留意と共に在ればいい。
しゃべる中には、およそすべての社会的な習慣が持ち込まれやすい。
だからこそ、会話というものは、そこでこそ、法としての在り方を必要とする。

だから、ようは話題ではない。
マンガの話、仏法の話、異性の話、・・問題は話題じゃない。
問題は我々の裸のままの『ただの存在性』そのものなのだ。
それが出会うときが、それが本当の法友だ。
法についての話題や意見をおしゃべりできるのが法友なのではない。
そこにただ存在して、
お互いに楽に『法そのもので在れる』関係。
それが本当の法友だ。

だから、ときには、その法友は、
猫であるときもあるのだよ。

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