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秘する女神のコラージュ〈3 階段を昇る雨〉

2…〉   

 其の街は階段で出来ている、建物と建物の間には用途の判らない階段が敷き詰められて、建物から出ると、下り階段を下り、次の建物へ辿り着く前に、上り階段が始まり、次の建物へ入る時は、建物の二階や三階に辿り着く、其の様な街である。窓から見えるローズゼラニウムは花を付け薫り、壁を這うブーゲンビリアは炎の様に咲き、空は狂った様に晴れていて、鳥は絶え間なく唄っている。彼女は色彩楽譜の複製を作っていた、広げられた色彩楽譜をマニュアル通りに模倣し続けている。夏の小花を細かくグリーンが区切ったブーケが投げ込まれているガラス製の花瓶が広い机に置かれ、他には筆記用具が転がる様に在る、木製の机は使い込まれていて傷跡等が在るが、品良く、使い心地は良さそうに見える。
 水の音が聞こえる部屋のオルガン、其は花束を奏で、ブーケを組む仕草となる、彼女は思った、花の茎のスパイラル、其が一つの動作として成立して行く様、組み上げられた魔法が慥かに其処に在る。重ねられた薄絹の肌触り、包み込む衣類は私を祝福していて、通り抜ける風の囀りが、私に欲望の火の粉を振りまいている。何を思い出せばよい、と問われたら、私は其の部屋を思い出すだろう、私が在った土地、其処を歩けば見る事が出来る、光景と云うモノリスを。
 彼女は溜め息を付いて、室内に置かれている鏡を見た。顔は水面の様に揺らぎ見る事が出来なかった。
 まだ、失顔は在る、彼女は思った、顔は見えない、でも、やがて、私は顔を思い出してしまうだろう、沢山の色彩の複製を作り続ければ、分化を避けられない。顔を思い出したら、何もかもを忘れる。《チェルノブイリも、あの街の内戦も、此の世界の受難も、素晴らしさも、そして、何処かで聞こえる爆音も》でも、やめる事が出来ない、複製を作る事は私にとって何なのか判らないままなのに。そして、此の目の前の惨状から目を逸らす事を内心受け入れつつあるのだ。其等を受け入れて、自分の失顔を失った時、私は〈群Δ周円〉としての自分を思い出す。《或る日、私は徴兵されて此処に来た。気付くと私は身籠っていて、終わる事の無い作業を続けている》此の夢は誰の夢の続きだろう。あの日徴兵を拒否すれば、此処に居なかったのだろうか。《あの日、眠り化粧をして眠っていれば》あの日失顔を売ろうとせずに、顔が無い生涯を許容すれば、此処に居なかったのだろうか、だが、あの日とは何処に在るのだろう、私は兵役で只管作業をしているだけだ。停止した思考は何かに巻き付こうとする、今在る行動の正当性を捜しているのだ。《だが、私の思考が運動している時、私は何者にも巻き付かなかっただろうか、寧ろ、其の様な巻き付く先への疑念が何かを見失わせているのでは無いだろうか》溢れ出るオルガンの音色に、私は規則性を見出す事が出来ない、初めて聴くメロディに法則が見出せない様に。此の階段の街で、足を踏み外せば子供は死ぬだろう、私は誰の子か判らない子供を守ろうとするだろうか、恐らく、私は其を守ってしまう。《身を守る事が、即ち、子供を守る事だとして、結局は守るのだ、何者の為でも無く》ああ、何の為に生きるのか、と問う、子供の私も居た、《其は、誰かの為の自分の生、を求める事だ》、其の様な作用を世界は求めている、だが、其へ反発する利己性が等しく在り、二者は鏡像として等しいものだ。利己の理屈は利他の理屈と等しく、利他性は〈利己的利他性〉以上にはなれない。〈利他的利己性〉としてウィンウィンへ持ち込もうとしても、此の鏡像から逃れられない、バランスは胎動の様だ。
 「全く、誰が階段何て物を考えたんだ」男はロシア語で云った。「荷物を運ぶにも不便だ、何より俺達みたいな荷物を運ぶ仕事をしている人間には不便此の上無い。此の間、図書館に書類を持って行った時、前から誰かが走って来て、其を避け様として後ろに下がったら危うく転がる所だった。あれが最後まで転がったら確実に死んでいたぜ」男はタバコを吹かしながら、窓から街を眺め独り言を云っている。
 どうして私はロシア語を理解出来るのだろう、いや、此の際、其もどうでも良い、此の複製をどれだけ作れるのか、其が一つの課題だ、彼女は思った。
 詩人は詩を書き続けている。
 「なあ、詩人はどうして詩を書く」ロシア人の男は尋ねた。「詩なんて回りくどいだけの言葉だ、言葉は言葉以上にはなれない、言葉はものを分析して分類して人を閉じ込める為のものだ、あんたの詩は俺を何に閉じ込めようとするのだろうな」
 詩人は筆を止め、ロシア人の男を見た。「閉じ込める物の内から、其の外に流れる詩も在る。閉じ込める詩もあれば、開放する詩も在る。詩の流れと事物の対流の中で人は生きている、流れにとって、建物とは通り抜ける楽器に過ぎない、そして、楽器の響きも流れだ」
 「其を聞いている俺も流れだ、だから聞き流してやる」ロシア人の男は云った。
 「流れ流れって、私が流産したらどうする」彼女は云った。
 「御前は其を産む心算らしいな、だが、其を望む者が何処に居る。下らない世界だ。其の子供も徴兵されて、死ぬか孕むかで悩むだろう、屍の上に屍の子供を重ねる、其で高く上ったとして何処に着くと云えるのだ」
 「誰の為の生か、誰の為の死か、判断出来る言葉は前提より先には無い。時は便宜的解の断面で描かれない」詩人は云った。
 「御前は産む心算かと問うなら、あなたは孕ます心算を何時も考えているの」彼女は尋ねた。「勝手に産むのを責めるなら、勝手に孕ませる者も責めなければならない。そして、結局、何者も責める事は出来ない」
 「苛々しただけだ、俺の睾丸を責めないでくれ、もう少し気持ち良い思いがしたいだけだ」ロシア人の男は笑って云った。
 「雨が降るな」詩人は窓の外を見て云った。「気持ちが良い思いがしたいなら生き残れ、子供を産むなら尚更だ」
 彼女が見上げると、分厚い雲を連れて、空飛ぶ魚が群を成しつつあった。
 「もっと、クレイジーになろうぜ」ロシア人の男は笑いながら云った。
 安心しろ、世界は思ったよりクレイジーだ、彼女は思った、宛先の無い手紙の様に、何かが始まると期待している私達の、世界が終わるまで、幻想は消えないだろう。
   ×
 何時の日か、私は此の夏を思い出すだろう、何もかもが解けない問題で在る中、彼女は再び命題を生み出した。其の難解さを楽しんでいるかの様な〈秘する女神〉、民紗は思った。或る人は、問題を解く事が大切だ、と云い、或る人は、問題を作る事が大切だ、と云う、だが、目が覚めたら、世界は何の意欲も気力も遣り甲斐も無い退屈なものへと変貌を遂げている。何処へ行き何をすれば楽しいものになるのか、私が何を求め、何を成し遂げ、死んで行くのかも示されない。《緊張も緩和も無い、無風の時の中で意識を持って立って居るにも拘らず、苦痛も無く私は転がって行く。教えて欲しい、此の命を、どの様な炎に投げ込めば、充足した気持ちになれるのか》私は自分の履歴を思い出し、其の〈群Δ周円〉を思い出し、問題を作る事も解く事も出来ないまま、此の世界の維持に努めている、寧ろ、他にすべき事が無いと云う理由に縛られる姿で、自分を正当化している事にすら無自覚だ。《私はものを見る度に、自分の履歴から自動的に、物語を読み取る、其が詩で在っても、物語として読むだろう》、つまり、もう、其の言葉の所作を、純粋な言葉の動作として想起出来なくなっていて、其処に自分の履歴を押し付ける事しか出来なくなっている。
 八重民紗は音楽室に在るグランドピアノの下で目を覚ました、ピアノの音と冷房のノイズが木霊し合いながら、彼女の身体を震わせている。光は事物を褪せさせて、表皮は形成され続けている健全な代謝である。何も思い出せないと云う、瞬間的な高揚を、味わう間も無く、彼女は現実の在処を認識していた。彼女は学校の推奨服であるシャツとスカートを身に着けて、ピアノの底を見上げていた。
 でも、問題が欲しいと云う理由から他の可能性を簡単に捨てると云う事が頭の中で判っていても、私には選ぶ事が出来ない。私は多様性に付いて迷う、と云う過程を楽しんでいるだろうか、いや、学校生活を楽しんでいるとは云えない、恐らく、私には此の過程が判っていても想像出来なかった。たとえ、中学生活と大差が無く、下らないと判っていたとしても、高校に進学しないと云う選択は無かった。青春が下らないと判っていても、捨てられないのだ。何だかんだで私は平凡で大衆的な趣味と物語から離れられないで居る。《女で在ると云うハイコンセプトと其の閉じられた結末》《欲求自体を、理由として持ち出している時点で、もう、発想には限界があると私は知っている、私は問題を作る事が出来ない、其は、此の世界の隅々までを注視出来ないからだ。ついさっきまで、何か重要な事を思い出して居た気がする、其は目の前に在って、手触りがあったものだった。ついさっきまで、何か素晴らしいものが在った、だが、其のツール自体を失い、私は此の世界を退屈な物語に書き換えている》此の退屈さと云う、幽かな痛み、其の疑問を如何に広げられるだろう、私は何を退屈だと思っていたのだろう、何を輝きとして思い出しているのだろう。《此の様に不誠実な動脈の涙、其の赤さ》嘗ては素晴らしかったと云う声、其の、嘗て、が其のまま蘇ったとして、置き忘れた押し花を不意に見付けた感動以上の何かが、此の手に落ちて来るだろうか。いや、私には判らない、どうして彼女は子供を産んだのだ。《どうして、私は子供を産まないのだ》宮崎文乃が子供を産んだ、其を聞いた時に、私は明らかに物語の迷走を感じた。感動ポルノは興覚めをして家族制度の予感とストーリーは突き落された。全く想像出来ない事だったからだ。戸籍上の子の父は、弓丘圜だと云う、彼自身真っ青になるぐらいだから、彼にも自覚が無かったのだろう。一般的に十七の母より十七の父の方が、実に理不尽な話であるが、異常な感覚を覚える。彼は父として、今直ぐに、生き方を変えるだろうか、いや、恐らく、其は無い。彼女は唯、子供を産み落とし、其の子を唯在るものとして育てるのだろう。《そして、私は、其を何処か愚かな行いとして見下している。彼女は自身の履歴、キャリアを棒に振って、若くして母となった》其処で、低価値、とされているものが、明確に見えて来るに従って、私は自分自身を貶めている様な気持ちに苛まれる。つまり女性性にロイヤリティを求めていて、何処かの誰かが私の為に奇跡を持って来てくれる事を期待している、女性的な妄想だ。此の習性が文化的女性の退屈さなのだろうか。《同時に、人は受動的に生きるしかない、人は土地や建物の中で、発想を膨らませなければならない》
 ピアノの下から這い出ると、彼女は辺りを見回した、先ほどまで、誰かがピアノを演奏していた筈なのであるが、辺りに人影は無かった。やがて、誰かの奏でたピアノの振動すら、錯覚の様に感じられ、思い出せなくなって行った。扉を開けて廊下に出ると、彼女は何となく歩き始めた。
 白いシャツ、棚引くスカート、白い足、幽かな汗の匂い、空は素肌に映る為に青くなる。凌辱される為の少女の白紙、習慣としての物語、家族制度と家父長制度を守る為の利己的利他性と其のダサさ、其に向けて復讐を続けている青い声は対立する像を描けない。少女は結婚して子供を産む、其へ至るまでの虚構として、私達は廊下を歩いている。思い出されたものを諦めたとして、其が真実なのだろうか、此の光に何も思い出せないとして、見出されるものは〈現在∧現実〉に在り続ける。だが、此の湿気に満ちた呪縛の他に、物語が無いと、私に云い切れるだろうか。物語が一つしかない、と云う思い込み。《木霊したオルガンが含んでいた薫り、其の囀りに、一寸でも夏の薫りが在っただろうか。水は澄んでいて、残酷な程に冷たかった、文面は密集していて、イマージュの弛緩は遠い、此の連続的な緊張、抽象的な建物、途轍もなく広い個室、私達は言葉では捉えられない》《逸脱は分岐点を知らない》いや、私は、何を思い出して居たのだろう。

 文乃は愛しそうに赤子に微笑をしながら、ノートPCに向かって仕事をしていた。出産し憔悴した体でも仕事をしなければ生きて行けない、と云う訳では無い、彼女はアイディアを止められないのだろう。民紗は彼女に何かを尋ねたいと思っているが言葉に出来ないでいた、其は出産すら一つのものを作る過程であり、済ませてしまえば興味の対象ではない、と云う様子で在るからだ。
 此の言葉に出来ない、嫌な感情は何だろう、民紗は思った。私は友人を心から祝福出来ないでいる、此は何だろう。あなたはきっと此から苦労するだろう、でも、健康な子を授かって良かったね、と正直に云えるだろうか。いや、寧ろ、其の様に形成されて行く虚構が自覚されている事が難解なのだ、常識と照らし合わさずに居られないのだ。そして、彼女は、どうして、嬉しそうに仕事をしているのだろう。イメージがある、アイディアがある、結構な事だ、見上げた根性だよ、然し、君に其が必要なのか、子供も仕事も必要なのか、そして、此の世に生を受けた人間が、君の様に生きる事は殆ど不可能だろう。神童を作るのは偶然だけだ。君は何処へ行く心算だ。文乃は、無邪気で邪悪な子供のままだ。私は、何の為に生きているのか、とは問わない、寧ろ、其処までして生きていたいとも思わない。だが、率先して死へ向かうには祝福を受け過ぎた、其は生きる事を諦められないと云う事だ。生きる事は享楽なのだろう、然し、何を楽しめば良いのだ。此の広大な価値の砂漠化の中で、手に取るものを愛おしいと思える活力を、何処から導いてくれば良い。私には思い出せない、自分が夢中になった宙を舞う躍動を。《然し、私は如何にして死にたいのか、とも問わない、寧ろ、其処までして死にたいとも思わない。だが、率先して生へ向かうには呪縛を受け過ぎた、其は死ぬ事を求められないと云う事だ。死ぬ事は快楽なのだろう、然し、何を味わえば良いのだ。此の広大な生命の海の中で、自らを握り締める愛おしいと思える握力を、何処から招いてくれば良い。私には思い出せない、自分が帰るべき炎の微動を》

 荷物を持つ為に教室へと帰ると、既に生徒の姿は無く、空っぽの教室は遠くの声を響かせていた。彼女は其を通り抜けて、教室を出た。日の光は廊下の影を深くしていて、抜け出す建物の外は烈日であった。

 或る雨の日、学校の近くに在る神社を散歩している時、私は其の人に出会った、彼は傘を差して、雲の行方を眺めていた。華奢な青年で、コートの中は洒落たスーツで在るらしい。其の立ち姿は、浮世離れしていて、周囲に音は無く、丸で、雨を読んでいるかの様だった。
 《雫が水面を打った時、疼く痛みが展開する音がした》
 彼は暫く空を眺めるとカフェ宿り木へ這入って行った、私は思わず彼を追い掛けた。リビドーと云うものが人を通して伝わってくるのを私は初めて知った、其は、愛おしさであると同時に、暴力的な嵐で、《火も溶けた褻の楽譜は、雪の上に再生される》、其が性欲で無いと云える程、私は性的に未熟では無かったからだ。私は店に入り、彼の近くの席に座った。少し離れているが、彼を視界から見失わない程度の近さだ。青年はカウンター席に座り、マスターの拿梛さんと話をしている様であった。
 「まあ、穴埋め何ですけどね、無いよりは増しです」彼は云った。「やってみれば、勉強になると思う」拿梛さんは云った。其の様に、二人は親しそうに話をして、時間を潰している様だった。其の間、何度か拿梛さんは私を見て笑った。
 《女性性と云う意識上の化粧》《女性の不便さを私は改めて認識した。私は明らかに、性的な衝動で彼に近付いたと云うのに、今からセックスをしましょう、とは云えないのだ。まずは友人になり、親しくなり、予定を合わせ、好意を持たれ、セックスに誘われる、其の様な回りくどい物語が、私の手足を委縮させた》然し、私は其の様な物語を求めているのか、唯の快楽を求めているのか、全く判らないでいたのだ。其処には三つのリスクが在った、一つは誘う事で落ちる女性性のロイヤリティ、一つは相手に幻滅されるかも知れないと云う自尊心への恐怖《つまり私の鏡像が脅かされる問題》、そして、一つは相手に幻滅するかも知れないと云う恐れ《つまり介他する私自身によって相手の鏡像を崩壊させるかも知れないと云う加害の痛み》、そして、其等を取らない事は家父長思想的権威に保護されている事だと見えてしまう。《君は決断しなくても良いのだよ、と甘やかされる私のエゴ》《其でも私は一歩が踏み出せない》だが、セクシャリティとは褻性を有した何かだ。
 暫くして拿梛さんが私の事を紹介して話し始めた。
 「民紗さん、君は僕と友達になりたいのかい」彼は不思議そうに尋ねた。「僕は何処にでもいる大学生で、取り柄の無い人間だよ」彼は素っ気無く云った。
 其でも私は彼にあれこれ質問をした、興味が在ろうと無かろうと、思い付く疑問を彼に尋ねた、其等に一切意味が無いと知りながら、私は彼に何かを云わせないとならなかったのだ。

 普通に考えれば、文乃は苦労する、民紗は学校から出て駅へと向い歩きながら思った、でも、本当に其の常識が正しいのだろうか、寧ろ、周りの常識が、常識の正しさを立証する為に、彼女に苦労を強いるのでは無いだろうか。其こそが私達を不自由にしている物語、叙情詩、メンタリティの欠落、感動ポルノの類では無いか、家父長制度の後押しをしている強制の類ではないのか。そして、彼女は其の常識が押し付ける難癖をいとも容易く回避するかも知れない、だとしたら、今の私の方が間違っているのかも知れない。《そして、私は何時か思い出すだろう、生き方に正しさや間違いを求める私の幼さが、私の視界を閉ざしていたのだ》嘗て私は思っていた、私の魂はアンドロイド化している、アンドロイドとは身体より先に魂を機械化しているのだ、私の顔とは私の履歴で在り、過去の累積こそが自己の顔なのだ、と。《此の顔の〈此性〉は無く、寧ろ、コピー可能なものとして、私は自己を捉えていた。私は消耗品として、何の代用になれるか、明確に述べられる性能を有している》だが、どうだ、恋をしたら、一瞬で顔を見失ってしまう、述べられる自分で説得して得られる愛など無いと、私は思い出している。言葉も無く、文脈も無く、物語も無く、且つ、其処でしか物語が始まらないと云う、確固たる水面、其処から這い上がって来る登る涙、波は見出されるものなのだ。どの面を下げて、私は云えたのだろう、私の魂がアンドロイドなのだと。《そして、如何にして彼女は此の様な難問を踏み越えたのだろう、其の一歩の不可解さたるや》
 身を焦がす光を抜けて、彼女は駅へと這入り、流れる汗を拭き、吹いた汗を吸った衣類を重く感じた。電車を待つ間も光は彼女を焼き、逃げ込んだ列車は少々混雑していた。

 「何時か、何の為に生きているかって、聞いたでしょう」昼休み、民紗は真糸に云った。「きっと、あの子は其の様な事は考えなかった。今、生きている私は、自分を説明する物語を紡いでいる、其を必死で誰かに伝えようとしている。でもね、其が無い人も居るの、誰にも判らない人。彼女は、私達と同じ歳で、子供を産んだ、私なんかより遥かに頭が良い人なのに。そう、私には人に見せるべき顔が無いの、自分が、或いは自由が無いの。好きな人が居ても、此が私です、と云える何かが無いの、だから、自信が無い。其の子は違うのだと思う。生まれて来る子の事も、パートナーの事も考えない、其だけの自由が在ると云う事なのかな」民紗は云った。
 其を聞いた真糸は青い顔をして、民紗を見ていた。
 「きっと、此は私の愚痴だね。だって、自信が在れば、迷わずに進める、進んでいる間は多分迷わない、一つの事に集中している、余計な事は考えない、でしょう」民紗は云った。此の子に云ってどうなるのだろう、民紗は思った。きっと、真糸からしたら、彼女は奇妙な人間に見えるに違いない。

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