見出し画像

こういうふうに死にたいって、こういうふうに生きたいと同義だと思う。

先日、ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ型メディアの「U-29」さんからインタビューを受けた。

記事

インタビューを受けてみたことで、改めて自分の源泉を感じ、再確認することができた。(インタビュー記事はコチラ!


自分の源泉は「楽しむこと」と「可能性」


自分の源泉は「楽しむこと」「可能性」だなーと。
源泉とは人がもともと「こうありたい」と願っている自然な望みだと思う。ここは人それぞれ。「誠実」「公正」「貢献」「成長」などなどあるなかで、僕は何をしていても目の前の人の「楽しみ」や「可能性が広がるのか」などと考えている。これはどうしようも変えられない。

源泉が「楽しむこと」や「可能性」という未来志向的な感じなのに、在宅で”死”を前にして、人生をどう下っていくのか、という時期にある高齢分野に関わっているのか。この源泉なら、”教育”や”こども”に関わっていく方が良かったんじゃないか?とか考えることもあった。
ただ”死”というものに、なんとなくだけど、すごく可能性を感じていたんだと思う。

死と生

こういうふうに死にたいって、こういうふうに生きたいと同義だと思う

U-29インタビューの中から

日常で”死”に触れることって、すごく少ないと思う。という僕も、ぐるんとびーに入るまで日常の中に、死がある感覚はなかった。
ぐるんとびーに入る前、じいちゃん、高校の同級生、患者さん、友人の親、と4人の死に出会ったことがある。お通夜や葬式に出ることはあったけど、いつも、その直前のことや死までの経過がわからず、ある日突然”死”が目の前に来ていた。
その度に、「会える人には会っておこう」「思いはしっかり伝えよう」「後悔しないように生きよう」と、自分がどう生きるか。を考えさせられていた。
たとえ死んだとしても、その人が生きていた証として、他者が生き方を考え、今に繋いでいく。自分の親も、その親も、もっと昔になると吉田松陰が死に、多くの人に影響を与えたように、誰かの死が、誰かの生に繋がっていて今がある。すべては、繋がりの中で起きていることを理解するようになった。

今、ぐるんとびーで働くようになり、在宅で生きているじいちゃんばあちゃんたちに関わっている。ほとんどが80歳以上で何かしら病気を持っていて、要介護状態。じぶんでできる身の回りのことが減っていき、他人の力を借りないと、暮らしていくことが難しくなっていく方がおおい。
人にもよるけど、できなくなっていくということは、記憶、移動、食事、お風呂、しまいに排泄。自分よりも2,3回りも年齢が下の人に、お願いをすることが増える。
だんだんとできなくなっていく過程で、「できない自分」を認識し、「どう死んでいくんだろう」と考えているんだろうな。そんな暮らしと隣り合わせの今、死が近くなってくる方に関わっていると、その人の強烈なエネルギーにあてられる時がある。その瞬間が堪らなく好き。人間のすごい可能性に出会った感覚。僕が想像していないことが起きる。本当にすごい。その瞬間、本人はめっちゃ幸せなんじゃないかな、とか思う。
死を強烈に意識することで、こうやって生きて行きたいんだ!とエネルギーが溢れてくる。死は恐れるものではなく、可能性に溢れ楽しいことなのかもしれない。と思うようになってきた。
死は生の可能性を広げている。人が本来持っている願望をより強く感じさせてくれる。
そんなエネルギーにあてられた僕は、その生き方をしたい!って思うし、人に繋いでいきたくなる。

たとえ死んだとしても、その人が生きていた証として、他者が生き方を考え、今に繋いでいく。自分の親も、その親も、もっと昔になると吉田松陰が死に、多くの人に影響を与えたように、誰かの死が、誰かの生に繋がっていて今がある。すべては、繋がりの中で起きていることなんだなぁ。と思うようになった。

大事にして行きたいこと

歳をとっていくということは、死に近づいていき、できることが減り、困りごとが増えていくことだとおもう。今も、これからも、”楽しみ”や”可能性”といった言葉から反対側にあるような、最低限生きることができる社会にはなっていくと思う。死に近づいていっても、こうやって生きたいんだ!と強烈なエネルギーを発揮することもできないことがたくさん増える。
だからこそ、僕は”楽しむ”や”可能性”といった言葉を大切にして、進んでいきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?