いちじくの話

夜がすっかり秋めいてきた。

私の故郷の田舎では、きっと今頃金木犀の香りが漂い、秋祭りのお囃子の練習の音が響き、家ではイナゴやいちじくをせっせと煮ているんだろうと思う。地元はたいして好きではなかったが、あの秋の空気感だけは好きだった。

金木犀、イナゴ、いちじく、秋の涼風。

それらはすべて、私を秋というものにどっぷりとひたらすキーワードになり得たのに、今住んでいるここには秋の涼風以外共通するものがない。こんなところで、東北の広さとその植生の違いを思い知らされる。

秋の雰囲気にスイッチを押されて、この時期どうしても無性に食べたくなるものってあると思うが、それが私の場合はいちじくの甘露煮だったりする。

しかし、植生と食文化の違いによって、このいちじくがこの辺ではまぁ売っていないのだ。大玉の果物用の赤く色づいたいちじくのことではない。煮る用の、青くて固めな、小ぶりの、キロで袋に入っている、いちじくだ。秋になればどこのスーパーでも八百屋でも売っているものだと思っていたが(それこそ梅雨の頃の青梅のように)、これがないのだ。ないところの人にしてみれば当たり前でも、あるところの人にしてみれば信じがたいわけで、毎年これを探し求めて歩いている。

昔ながらの商店街の果物屋さん、八百屋さん、道の駅に行商で来るおばあちゃん、繁華街の高めのスーパー、あたりを毎年巡回しているが、入荷があったりなかったり、あっても高かったり、質が良くなかったり、どうせならベストなものを買いたいが、かといって買わないでいると次いつ手に入るとも分からず、その待ちと買いのタイミングがとても難しい。

買ったらその日に煮ないとだめで、煮るのも時間がかかるので、いちじくを買える日、買える場所というのも限られてくる。長く持ち歩くと自重で潰れる可能性があるので、遠出して買ってくるというのも難しい食材だ。

狙ったものを狙ったとおりに買うという行為は、とても高度で難しいということを知る。いつもこの時期になると、世のシェフやバイヤーの買い付けの技術というものに驚嘆せざるを得ない。これを毎日やっているんだからすごいよ。

そんなふうに苦労して手に入れるものだから、洗ってへたを落としたり、傷んでるところがないか確認しながら楊枝で穴をプスプス開けたり、ザラメを計ったり、いちじくを煮ながらアク取りをするときのあの生っぽい香りなんかも全部尊くなっていく。面倒くさがりなはずの私でも、好きなもののこととなると、手間までもが愛おしくなる。

そうして、たくさんの手間と時間と材料費と光熱費と期待を全部投入して、超超高級品と成り果てたいちじくの甘露煮を口に含んだときの幸福と言ったら。最高の贅沢で、ほとんどカタルシスに近いものがあるわけ。
だから今年も作っちゃうんだろうなぁ、きっと。

ちなみに今年はまだいちじくを買えていない。このところ週末立て込んでいて、煮るめどが立たないというせいもある。でもやっぱり食べたい。しかも、できれば、自分好みの甘さと濃さで煮たものが食べたい。こればかりは、売っているジャムやコンポートでは満足できない。記憶や習慣と結びついたたべものは、ほかでは駄目なのだ。どうしても代替できないのだよ。


なんて、こうして寝ても覚めてもいちじくのことを考え出すようになってきたら、それが秋になったというしるしなわけなのです。

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