メモのような日常と臨時オープン


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3月は不思議な季節である。
春という季節が「新たな始まり」を予感させる一方、様々な「別れ」を迎える人も多い。卒業式、などはその典型であるし、社会人であれば年度終わりの整理や処理に追われる。
新たなスタートのために、誰もがなんらかの「卒業」を迫られる。

それがとても、矛盾として感じられる。
始まりと終わりが混在している。もはや神秘的でさえある。

3月は「過去」の季節でもある。
歴史的な事故や事件、今に至っては「パンデミックな」コロナショック。
「そういえば大変なことがあったよね。」という思い出。感傷的に昔を振り返り、今の状況とあれこれ比べる。


あらゆるものの境界が曖昧になり、「現実の外側」へ目が向かう。



そう、3月は優しいのである。
とめどないカオスの中に、どうしても「優しさ」を感じてしまう。
むせるような桜の香りと不安定な春風が、脳裏と肌に絡みつく。

その熱い手触りにくらくらする。氣が付けばよろり、よろめく。
そしてハッとする。

それは一瞬なのである。
強烈な印象を残しながら、「誰の邪魔にもならないように」静かに去っていく。
かと思えば、「私を忘れないで」と爽やかに媚を売る。

胡蝶之夢…。
全ては幻だったのか?

花粉症による鼻水が、真実を知っている。


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「翼」という文字は、「羽」と「異」で出来ている。
これはつまり、「異なる背景を持つ場所」へ飛んでいくため、「羽」が必要だということ。

冒険したいなら。
新しい自分に出会いたいなら。

「足りない自信」を数えないで、
「持ってる羽」を広げるだけ。

多分とても、簡単なこと!



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深夜1時。
親戚の叔母からLINEコール。
私は寝ようとしていて、正直出るかをためらった。どうしようか…。

迷いながらも応答を決意。酔った声が電話越しに聞こえてきた。
「もしもぉぉぉし?」
Oh…。出たのは失敗だったか?この時間の酔っぱらいは経験上タチが悪い。

大した用事は無いようだ。だらだらと会話を続けていた。どうやらストレスが溜まっていたらしい。
彼女は好きだ。
昔から相談によく乗ってくれたし、沢山助けてくれた。何よりも、考えや価値観のセンスが似ていた。とても楽だった。

だんだんと酔いが回り、彼女は壮大なことを語りだした。
「自由な人生」への憧れ。不平等な現実世界への怒り。それらに対して無力な自分への不甲斐なさ。電話越しに泣き始めた。正直、笑えた。(笑)

「うぉぉぉぉん!なんであんたはそんなに「大人」で、無償の愛を注げるんだよぉぉぉ!私より若いくせに、畜生!寂聴先生かよぉぉ!」
彼女のポジティブな八つ当たりに思わず笑ってしまった。


「国際連合」みたいな人なのだ。
人間臭い後悔に囚われて、たまに身動きが取れなくなる。
人生への僅かな諦めと、反動としての執着。
私には無い、それらの「重み」がなんだか面白いなぁ、と思う。

世間が落ち着いたら、メキシコ料理を食べに行こうぜ。


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その夜以降、私の中で「無償の愛」がテーマとなった。
イタリア語で「愛」はamore.
ちなみにamoreは男性名詞である。

「愛」の本質を考える際、この事実がユニークな視点になりうるかもしれない。
The Origins of Loveも参照してみたい。


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「書けない」+「書かない」+「書いても楽しくない」=「今は書くときではない」


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昨今の「わんにゃんブーム」には目を見張るものがある。
やはりあのもふもふ達には本能的に敵わないと思う。実は人間が一番弱いのでは?
圧倒的ねこちゃん派の私だが、最近おかしい。おかしいくらい、わんちゃん達にモテているのだ!

事の発端は先日。
とある古着屋さんのドアを開けると、何やら白くてスピーディな物体が私をめがけて突進してきた。

びっくりした私は、それが犬だと気付くまでフリーズしていた。
「わわ!すみませーん。」
店員のお姉さんがわんちゃんを抱きかかえる。
それまで私をベロベロ、タシタシしていたその子は名残惜しそうに捕獲されていった。

…かわいい…。けど、騙されないもんね!私はねこちゃん派だもんね!


とは誓ったものの虚しく。
この日を皮切りに街を歩けば必ずわんこたちが駆け寄ってくる。
どの子もデレデレ興奮状態で、ベロベロしがみついてくる。
この異様な「モテ期」は何なのか…。

彼らはじーっと見つめてくる。負けじと私も見返す。しかし、絶対に目を逸らさないわんこ達。
私を通して、何か奥深くまで意思疎通しているようだった。
私はただただ、困惑することしか出来なかった。

彼らの愛情表現は、「純粋」過ぎて怖かった。
尻尾を振って、絶対的な好意をこちらに向けてくる。そのエネルギーに圧倒される。

私は、彼らの飼い主でもなければ、餌を持っている訳でもない。塵ほどの「利益」も無い私は、向けられたその「無償の好意」に対して、自分が何も「対価」を支払っていない後ろめたさと、そしてそれは同時に、「理由なき愛」を受け入れきれない自分自身を叩きつけられた氣がして、ひどく動揺してしまうのだった。

…だからまだ、ねこちゃんでいい。
「エサくれるならにゃーんって鳴いてあげるよ」という条件付きスタンスの方が、安らぎを覚えるのである。



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自分という存在は、「自分の世界」だけで成り立っている訳ではない。
「自分が思う自分」と「他者から見た自分」というものが、おおむねせめぎ合いながら成立している。両者のバランスと割合を、健康的に保つことが今のご時世、結構重要なのだと思う。そして、それらは何一つ「間違い」なんかではないのだ。

人から言われる「イメージや印象」に、少なからず違和感を感じる時がある。
「他人からはこう見られているんだぁ」と受け入れつつ、「そんなに外交的じゃないけどなぁ」と一人苦笑している。

でも、「自分には見えない自分」が他者のフィルターを通って反射する時、それはもはや「自分の一部」でもあるのだと思う。
誰かからの意外な「褒め言葉」が、セルフイメージの可能性を広げることだってあるのだ。

その為にも、「自分と全く異なる他者」に出会うことが大事。


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「ゆそんさんがこの後、このままお家に帰る姿が想像できない。帰る途中、ふわーっとどこかで消えてそうですよね。」

審美眼が確かなお方は言った。

「あ、それ分かります。私も全然イメージ出来ない。どこかで消えてそう。(笑)」

私すら私を、あんまりよく分かってはいない。
もしかすると私は、「必要な人」にとっての変化(へんげ)なのかもしれない、という自惚れた自負。


憂鬱な月曜日が始まる前に、私の記事を読んで「あ、水曜日くらいまでなら、なんとか息出来る気がしてきた」と思っていただけたら満足です。サポートしていただいたら、大満足です。(笑)