嵐の夜に、独白は「毒吐く」


「いっそ死んでしまおうか」と心の中で呟いた。そのカジュアルな響きに、さほど驚きもしなかった。単調でモノクロな毎日を「穏やかな日常」と呼べるほど、私は老いぼれてなんかいなかった。



色んなことのタイミングが、本当に良くなかった。私はイライラしていたし、そのことがより一層状況を悪化させた。何をしても上手く行かず、全てが味気なく、そして私の人生だけがひどく「失敗作」のように思えた。
いわゆる「負の連鎖」に嵌っていることだけを、なんとか冷静に把握していたし、ジタバタしている自分を、どこか遠いところから見つめているようでもあった。


いつもなら気にもとめないようなことが、無性に許せなかった。
前を歩く人のスピードが遅すぎて、そんなことがこの世の終わりとさえ思えた。怒りの沸点は凄まじく低下し、目に見える全ての存在に、心の中で罵詈雑言を唱えていた。



「梅雨だからだよ」という慰めは、何の役にも立たなかった。そんな一言で誤魔化せるほど、溜まりに溜まった私の鬱憤は生易しくなんかなかった。

喉元にチクチクとしたものがつっかえたような、居心地の悪さを長らく抱えていた。体の不調とその部位にはユニークな関係がある、と個人的に信じている。つまり、頭痛なら「考えすぎ」、目がかすむなら「見たくない現実からの逃避」、そして喉の痛みということは「言うべきことを言えてない」、そんなところだろうか。


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そもそも昔から、「生」に対する執着が薄かった。
どうしてみんな長生きしたがるのか、また、大切な他人に長寿を求めるのか、よく分からなかった。と同時に、「○○のために生きる」みたな表現もいまいちピンとこなかった。
結局あっけなく死んでしまうというのに、何故わざわざ産み落とされ、生きるという面倒なプロセスを経験しなければいけないのか。二度手間ではないか。

「生きていること」への過度な賛美が、そこはかとなく鬱陶しかった。自分がそう感じる原因も、実は未だによく分からない。


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「不器用な天邪鬼コンテスト」があれば、絶対グランプリに輝く自信がある。
皆が右を向けば、私は左を向いていた。「向きたかった」訳ではない。なんだかよく分からないうちに左を向いていて、結果、いつもさりげなく集団から外れていた。そして厄介なことに、左を向いている自分に少しも生きづらさなんて感じてはいなかった。むしろ平々凡々呑気に右向く奴らを、心の中で馬鹿にしていた。ばーかばーか、ははは。

が、しかし。
いわゆるお年頃になると、人並みに「劣等感」を抱いてもいた。
「どうして普通のことが出来ないんだろう」とか、「器用でスイスイ生きてる人はいいなぁ」と思っていた。それがこじれにこじれた結果、「人生なんて早く終わってくれ」と思ってしまった。ネガティブ、という言葉が相応しいのかどうか、私には分からない。
とりあえず思いつくことをやり切れば、さっさと終わってくれるかなーと考えていた。自分が出来る範囲内での「やりたいこと」は全部やったから、明日死んでも後悔はない。


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「生まれ変わったら何になりたい?」と聞かれると、「もう一回私か、人間はもう勘弁」と答えていた。
やり残したことが無いと同時に、「やりたいこと」も実は無かった。全ては達成されるべき「目標」にしか過ぎず、そこに心躍るような高揚感なんて存在しなかった。
なので不謹慎化もしれないが、「死にたい」というワードをSNSや創作物の中で目にするたび、「え、want形…。すげー。」と感心すら覚えた。私にはそんな風に何かに対して積極的にアプローチすることさえ、面倒でならなかった。

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自分が確固たる揺るぎない自分として生きている、という自信はどこからやってくるのだろう。私はたまたま私だっただけで、定められた絶対性など、あるはずもなかった。つまり、自分に対しての執着も断然薄かった。

曖昧な感覚の中、正直一番しっくりくるのは生も死も本当に「どうでも」よかった。私にはそれが大事な価値とは思えなかった。世間が騒ぎ悲しみ喜ぶほど、私の中の「生きているリアル」は鉄のように冷めていった。

そもそも人類は、称賛に値するほど「崇高な」生き物なのか?
ぶっちゃけ、50年も3分も実は大して変わらないんじゃないか?というやさぐれた発見。はー、疲れた、お菓子たべよ。






憂鬱な月曜日が始まる前に、私の記事を読んで「あ、水曜日くらいまでなら、なんとか息出来る気がしてきた」と思っていただけたら満足です。サポートしていただいたら、大満足です。(笑)