「思い込み」は重いゴミ

こんにちは、Yusonです。
先日、自分用メモとしてちょっぴり書き殴りました。

何か忘れちゃいけないこと、ずっと得たかった「答えの原案」みたいなものが確かな手ごたえを持って​感じられたので、思いのままに書きました。
少し時間が経ち、頭の中で整理がついたら、もっとクリアに炙り出そう!ということで、今日は「思い込み」について考えてみようと思います。

前回のnoteでは、そもそも自分が生きている世界の「前提・ルール」とそこから生じる「思い込み」は少し異なる、というニュアンスで表現しました。
でも、冷静に考えてみると、それらはやっぱり重なっている部分もありますね。どこからが「前提」で「思い込み」なのか、改めて両者を定義してみたいと思います。

「前提」:社会的、大きい範囲、そもそも論、国の法律、立っている舞台(土台)のようなイメージ

「思い込み」:個人的、小さい範囲、その人にだけ過度に適用されているもの。絡み合ったマイルール、思考パターンのようなイメージ

「思い込み」はとてもパーソナルです。
自分の経験や過去の記憶から生じてしまったパターン。他人と完全には共有することなど出来ないトラウマ。それが「今の自分」に襲い掛かってくると現実の解釈が苦しくなってしまいます。

それらに日々気づいて、ポイポイびりびり浄化していたのですが、ある日、「これ、キリがねーな!」とやさぐれてしまったのです。(笑)
地味で大事な作業だけれども、私は何か、もっと深い「沼」に嵌っているのではないか、「迷子」になりたくなければ、もっと俯瞰的に「私」を見てみる必要があるのではないかと感じたのです。木を見て森を見ず、ですね。

具体的にどういうことなのか。
「親子関係」を例にして考えてみたいと思います。

たとえば、①「親子は特別な関係なのだ」というルールの世界に生きている人達がいたとします。これが私の思うところの「前提・ルール」になります。

そこから生じる「思い込み」には色々あると思います。たとえば、子供目線からすれば「私は育ててもらったんだから、親孝行しなければいけない」などですね。これは一つの「思い込み」になるわけです。

そしてこの「私は育ててもらったんだから、親孝行しなければいけない」という「思い込み」には「善悪のジャッジ」ももれなくついてきます。つまり、
「親孝行することはいいこと」、「親不孝は悪いこと」という具合です。ほら、メンドクサイでしょ!(笑)
もっと言ってしまえば、「親孝行している自分」を過度に正当化して、「親不孝な他人」を許せなくなる、ということもあるのかもしれません。

前回の記事で私が言いたかったことは、「親子は特別な関係なのだ」というルールの世界(舞台)をそもそも抜け出しちゃいましょう!ということです。つまり、「親子関係は特別なんかじゃない」「お店の店員さんとお客くらいの関係だよね」という世界に自分自身がシフトチェンジ出来る、ということでした。

「親子関係は特別なんかじゃない」「お店の店員さんとお客くらいの関係だよね」という世界に生きていれば、上に書いたような「思い込み」すら生じなくなるんじゃないでしょうか。
これは何も店員さんに対して雑に接してもいい、とか「親とは一生縁切りじゃぁ!」とか、そういうことを言いたいのではありません。

ただ、たとえば、親目線から生じるであろう「子育ては誰にも頼れない」とか「子供のことは親が責任を全て背負わなければいけないんだ」みたいな「思い込み」を、コンビニでお釣りをもらう感覚と、同テンションにできないのか?ということです。関係性の「濃淡」を自分が選んでもいい世界だってあるのではないか?という提案をしたいのです。


「ルール・前提」を壊すのではなくて、それが適用されている世界からするっと「抜ける」。
ついでに「思い込み」もごっそり置いていく。自分が住みたい「現実」に軽やかに移住する。
その「住民登録」は、自分が思っているよりも、遥かにイージーだったりするのかなと気付いたのでした。


憂鬱な月曜日が始まる前に、私の記事を読んで「あ、水曜日くらいまでなら、なんとか息出来る気がしてきた」と思っていただけたら満足です。サポートしていただいたら、大満足です。(笑)