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私はINTJなのかINTPなのかINFJなのか



はじめに・診断結果

私の人生を書く。
私はINTJなのかINTPなのかINFJなのか
わからなくなってきたので今一度自分の人生を振り返って整理しておこうと思う。その為に書く。有識者の方(もそうでない方も)このタイプなんじゃないかな、と思うところがあればぜひ教えていただきたい。でもとても長い文章にはなるので本当に暇な方向け。何せ1万字越え。
 
 診断結果としては、16personalityは高校生の頃、就活の頃、社会人になって設問が更新された頃と複数回受けてみたが、全てINTJ-tと出た。エニアグラムは5w6。トライタイプの結果は△584。心理機能診断は以下の通り。

ENFP(運動家)だけは絶対にないはず

今までの人生を振り返って、どのタイプが一番当てはまるのか考えてみる。 

保育園・幼稚園生の頃

 今思えば、この頃から既に社会不適合者だった。保育園のお昼寝タイムが苦痛。眠くもないのに布団の中に入って数十分ひたすら目を閉じていなければいけない。しかも周りの園児はちゃんと寝ているようだから不思議で仕方がなかった。眠れるわけがないので仕方なく布団を被ってその中で目を開けてひたすら掛け布団の繊維を見つめていた。
   でもそうすると先生がちゃんと寝ているか布団をめくって確認しに来るので、その時だけ目を閉じていた。他にも折り紙の時間が苦痛。不器用で上手くできない。折り紙なんかしてなんの為になるのかわからないから、早く小学生になりたかった。
  その辺が嫌で保育園には次第に行かなくなり、幼稚園に変えてもらった。そこではお昼寝タイムがなく、気の合う友達も二人ほどできて、好きに絵を描いたり粘土で食べ物を作ったりして本当に楽しく過ごせた。友達とはよく空想ごっこをしていた。別の惑星のお医者さんで、不思議な動物を治す、みたいな感じ。確か私が広めた。幼稚園内を駆け回ってそんな感じのことをしていたのを覚えている。
 

小学生の頃



 低学年の頃は曖昧で覚えていない。でも何故かずっとお腹が痛かった。週に1回くらいは忘れ物をしてた気がする。他の人が気にしない細かいことが気になる。 転んでしまった時、自分の事よりも周りにどう伝えれば良いのかわからなくて、泣けない。家に帰るまで我慢する。人にどう伝えたら良いのかわからない。
  遠足で昼食の時、おにぎりを地面に落としてしまって、どうすれば良いのかわからずに砂利の着いたおにぎりをそのまま食べたり。「もしおにぎりを落としてしまった時は~」という対処法を先生に教えられていなかったから、そういう時にどうすれば良いのか恐怖で固まる。
  この頃から本を読むのが好きで、親にハリーポッターを読み聞かされてからは続きが気になり、自分のペースで読みたいと思い図書館でハリポタを借りては1日何時間も本を読んでいた。学校の読み聞かせイベントでも、相手が読み上げるペースに合わせるのは面倒で、自分で勝手に目で文章を追って相手の音読は聞いていなかった。
 
   小学校高学年になると、今の親友であり幼馴染と言っていい存在が隣に引っ越してきた。後々私にmbtiを教えてくれた人でもある。タイプはINFPだそうだ。
  その人は絵を描くのが好きで、漫画なども好きで趣味が同じだったため、すぐに仲良くなり、毎日お互いの家を行き来して一緒に漫画を描いたり、漫画を交換したり、アニメを見たり、外に出て冒険をしたりと遊んでいた。周りの人からも双子みたいと言われていたらしい。
  友人は結構絵が上手くて、当時の私よりも上手かったのではないかと思う。私は友人の描いた絵を見て衝撃を受けたと同時に嫉妬して、焦った。クラスでは私が一番絵が上手かったのに。負けていられない。もっとたくさん絵を描く。将来は2人1組の漫画家になりたいね~などと言って、ネームを書いたり、それを学校のトイレでこっそり手渡して一緒に読んだりしていた。DS(ゲーム機)のゲームであるうごくメモ帳で曲に合わせて手描きpvを作り始め、投稿するようにもなった。それもお気に入り数は友人の方が上だったと思う。
   一度だけ、学校で描いた絵が入賞したことがある。どのくらいの規模かは不明だけど、子供の絵を100年保存してくれる企画みたいなもので、それに入賞した。つまり私の絵は100年後も健在だということ。よくやった。多分人生で一番楽しかった時期。
 
 

中学生の頃


 友人とはクラスが別れたので、下校時間も別々になり、家の前で偶然会った時にお喋りをしたり、休日に遊ぶことが多くなった。うごメモでの手描きpv作りも続けていた。
  中学2年生頃、「将来大人になったら、仕事で絵の練習をする時間が取れなくなるのではないか。大人になるまでに、絵を一定のレベルまでに上げておきたい」と思いたち、それから絵の練習方法を自分で考えて実践するようになった。期限は20歳までに、自分の納得するレベルまでに仕上げること。
 部活は美術部に入っていた。そこでは絵が一番上手い人と持て囃されてはいたけど、美術部にいてもただだらだらと絵を描くだけで上達はしない、時間の無駄だと思ったため3年生になる前にはやめた。
 この頃は自分の人生の目標が定まった時期でもあった。とある創作物語を思いついてからは、「私はこの物語を書く為に生まれてきた」と本気で思った。毎日キャラクターや世界観の設定を考え、イギリスが舞台だったためお小遣いはほとんどイギリス関連の本に費やしていた。魔法の世界の話だったので、その世界の硬貨を独自に考えたり、算数は苦手だけどその硬貨をドルや日本円に換算したらいくらか、など細かく考えたりもしていた。(多分今計算したら合ってなさそうだけど)
 せっかくこの世界に生まれたのだから、自分の生きた証をこの世に残したい。結婚して子供を残す、とか誰にでもできることは他人に任せて、私にしか出来ない方法で。その手段が私にとっては絵であり、創作だった。こんなことを大まじめに他の人にいっても笑われるだけだと思うけど、今でもこの考えは変わっていない。
 物語を思いついてからは学校が「ただ行くだけの場所」となり、ひたすら自分の頭の中で設定を考え続けていたため、クラスの友達と一緒に行動するのが面倒くさくなりつつあったけど、それでも何とか友達付き合いはできていた。「一緒にトイレ行こうよ」とか言われても毎回断ってはいたけど。(最終的にはしぶしぶ着いていってた)
   受験勉強も、どの高校が良いとか希望が全くなく、進学先で絵が描ければどこでも良いと思っていた。勉強しようとしても、紙とペンがあれば絵を描いてしまう。親は放任主義的な面が強く、あまり何かを言ってくることはなかった。少なくとも記憶の中では。本当に、勉強の重要性を説いて欲しかったとは思う。結果的に志望校は第一志望より1つ落としたところになった。

 

高校生の頃


 高校入学前から、ノリが全てな高校の雰囲気は私に合わないんじゃないかと恐れていたが、まさにその通りだった。入学したてでとりあえず集まったグループでご飯を食べるのが苦痛になり、メンバーの一人に「今日から別のとこで食べる」と伝え、早々に離脱。その後仲良くなれそうな人に声をかけてしばらく一緒に行動してみるも、その人は他の人と話している方が楽しそうで、一緒にいるのが苦痛になり始め、一人になる。
  クラスで人間関係が上手く構築できないのは、今まで絵にばかり集中してきたせいで、友達を作る努力を怠ってきたからだと自分を責める。あるいは受験勉強を録にしてこなかったから。このまま友達が出来無かったら、自分の価値観が更新されずに良い物語も書けばくなってしまう。劣等感を抱えた大人になってしまうのではないか。頑張ってきた絵だって世界一上手いわけでもないし、ネットには同年代でも自分より上手い人なんていくらでもいる。意味が無い。絵など描かなければ良かった。人生失敗した。周りの人に友達がいない人というだけで自分の能力を軽視されて、見下されるのが辛い。
 そんなことを考えていたらうつ病になり、1ヶ月近く休んでいた。その後少し回復してきたらまた絵を描き始めて、友達を作ろうと美術部に入った。でも部活に絵の練習時間を取られるのは嫌だから、顧問の先生に掛け合って、毎週金曜日だけの参加でも良いようにしていただいた。一応そこで友達と言える存在は出来たけど、なにせ週に1度しか会わなかったので、関係性は浅いものだった。

 2年生になる頃に、クラス替えのない学校だということを知って、その時点で絶望。とにかく絵や創作に専念して、ネットに創作漫画を載せたりしていた。お気に入りは200くらいでそんな人気のあるものではなかったけど。(結果的には飽きて5話くらいでやめてしまった)
   美術の授業が他のクラスと合同になり、そこで絵が上手いねと話しかけてきてくれた2人と友達になり、少し楽しかった。文化祭のポスター作りにも熱中して、1位に選ばれてやると思い、よく放課後に残って描いていたが、選考に残ったのは3年生の絵だけだった。明らかに私の絵よりも下手な作品も候補に上がっていた。友達とは3年生の絵だけ選ぶように優遇されている、と話し合った。絵を選ぶ側にも審美眼は必要だと思った。こんなことするなら私の時間を返して欲しい。
 絵に関する劣等感は中々消えなくて、クラスでの立ち位置も最悪だったので、うつ病が悪化し躁鬱になり学校には行けなくなった。後で聞いた話だが、文化祭では友達が先生に掛け合って私の絵を特別に入賞者の絵の横に並べてくれたらしい。今でこそその行動には本当に感謝しているが、当時は「選ばれなかった」という事実に打ちのめされてしまっていた。誰にも負けない絵の才能が手に入るなら、この先友達も恋人も一生手に入らなくていいから、その才能が欲しいと願っていた。

  幼馴染みの友人は県外の高校に行ったため、会う機会は減ったが、それでも毎日LINEをしたりたまに学校をサボって絵チャをしたりしていた。友人は友人なりに悩みながらも上手いこと人間関係を形成できているようで、当時は羨ましく思っていた。
 学校に行けなくなり、でも社会のレールには戻らないとという考えはあったため、通信制の高校に転校することにした。
 
 

躁鬱の頃の思考


 休んでいた時期に単位を落とした分、高校を1年多く通わなければならないと知った時は人生終わりなんだと絶望したし、毎日しくしく泣いて、通信制高校に対するネガティブな意見が現実的なものと思い込んで自分を追い詰めて、渦巻いた思考が止められなくて今すぐにでも誰か自分のことを殺しに来て欲しいと願っていた。地獄は現実にあったのだと思った。考えることが多すぎて、発狂してしまいそうなのに、頭上から声をかけてくる冷静な自分がいて、私が救われる為にはどうしたら良いかを指図してくる。
 苦しい。どうしたら苦しくなくなるのか。入院したい。薬を多く出して欲しい。この苦しみをわかって欲しい。じゃあどうしたら入院できる。親にこの苦しみを伝える。でも喋るのは苦手で上手く声が出ない。なら文章で。
 そうして書き連ねた文章を親に渡しても、返ってきた返事は私の期待したものではなく、「大丈夫だよ」という不確定要素の詰まった言葉で。多分、私が私でなければその言葉に救われたかもしれない。ただ私は解決策を指し示して欲しかった。一時の今の感情に対する慰めなどではなく。
 親は私のことを助けようとはしてくれたと思う。でも、親も別の人間で、私の言うことを理解出来ないことがある。私が一番大変だった時、助けが欲しい時、親は祖父の介護にかかりきりで、私のことはあまり気にかけられなかった。仕方ないとは思う。幼馴染の友人も、受験勉強で忙しそうだったから、迷惑をかけるわけにはいかない。
 誰を責めたいとかではなく、助けを得ようとしても助けて貰えないことがあるから、私は一人で助からなければいけないと思った。親だっていずれは死ぬのだから、今のうちに自立しておかないと。結局、私は、人に助けてもらうのではなくて、時間が経つうちに徐々に復帰出来るようになっていったと思う。
 

通信制高校の頃


 通信制高校に入り、やはり友達が欲しい、人と関わる必要があると思って、イラスト部に入部してそこで友達を得た。かなり知能に差がある人もいたけど、友達として楽しければ良いと割り切り、休日一緒に遊んだり、一緒にお昼ご飯を食べたり、ようやく「友達らしい」ことを経験できた。服を選んでもらったりもして、「私なんかでもこんな可愛い服を着てもいいんだ」と思えるようにもなった。化粧も覚え始めて、幼馴染の友人に会う時に「かわいいね」と褒められると達成感があったし、服選びや化粧には一時期のめりこんでいた。今でも好きだ。

 通信制高校の他に、不登校や元不登校の大人が集まる福祉団体の施設にも通うようになった。私は喋るのが苦手だから黙っている方が多かったけど、それでも同年代の友人が出来たり、逆に年の離れた大人の人とも映画を見に行ったりして、貴重な経験になったと思う。
 ただ、同時に不安定な人が集まる場でもあったので、友人に相談ばかりされることが次第に苦痛になっていった。共感はできないし、アドバイスしてもいつまで経っても解決はせず、そもそも解決する気があるのか疑わしい。それに、声が大きい人やすぐ泣く人に注目が集まりがちで、私が大人の人に相談したいと思っても、そういった隙が中々できないのが嫌だった。でもその時気にかけてくれた唯一の大人の人とは今でもたまに連絡をとって、一緒に綺麗な景色を見に行ったりする。(最近その人にも性格診断を勧めてみた。INFPだったそうだ)
 当時は、自分のことだけでも精一杯なのに、延々と愚痴を聞かされることに耐えられなくなり、同年代の友人とは結局喧嘩別れをした。

 

通信制高校の頃・挑戦したもの


 この頃に挑戦したものといったらキリがない。ただでさえ社会のレールから外れてしまったのだから、何か将来のため、働くことに繋がりそうな、意味のあることをしなければという思いに駆られていた。
 まずアルバイト。将来社会で働くために、一度は経験しておかなければならないと思った。働きたくはないけれど、働けない事の方が怖い。短期の接客業を2回ほどした。どちらも笑顔が足りないとは言われたけど。
 資格も取った。社会でそこそこ役立ちそうな、履歴書に書けそうな資格ということで、簿記の資格を取った。元々読書が好きだったので、漢検の資格もついでに取った。
 絵の方面では、LINEスタンプを作ってみたり、ちょうどvtuberが流行りだした時期で、2dモデルや3dモデルの技術を面白いと感じ、自分でも作ってみた。3dモデルは難しかったけど、Twitterとかで質問できるコミュ力はないので、全部自分で出来るようになればいいと思い、資料や素材を探して頑張った。物理演算まではさすがに出来なかったけど。

当時作ってた3Dモデル

 創作では、新しく思いついた物語が和風関連のものだったので、登校日以外は毎日図書館に通って民俗学の本を読み漁り、同時に面白そうな小説を借りて読んだりもしていた。 他にも初めてのプチ一人旅とか、二次創作小説を書いてみたりとかをしていた。 

通信制高校の頃・将来について


  進学先を考えた時期が、人生で一番思い悩んだ時期だと思う。本当は美大に行きたかったが、そんなお金はない。実力も無い。まだ躁鬱の真っ只中で、一人暮らしは出来ないだろうから家から行ける範囲の進学先で、と親に言われた。私もその通りだと思って親の言葉を鵜呑みにした。してしまった。社会に出て一人暮らしをしてから気づいたけど、一人暮らしをした方が家の環境に振り回されずにかえってメンタルが安定した。この時もあえて無謀な選択をした方が、結果的には上手くいっていたのではないかと思う。 
家から通える範囲の大学だと、看護学校や偏差値が低めの大学で、私がそんなところに行っても意味は無いと感じた。もう高校を1年余分に通っているから、さらに浪人してまで偏差値の高い大学をこれから目指すわけにもいかない。奨学金を返せるような職に就く自信がない。それに親がもうすぐ定年を迎えそうで、なるべく早く自立しないといけなかった。美術の専門学校も視野に入れたけど、まともな職に就ける可能性は低そうだったし、そうなると社会に役立つ資格が取れて、学歴が無くてもスキルがあれば仕事に就きやすい、情報系の専門学校を最終的に選んだ。デザインの授業も取り入れていて、入学してから就職の方向性を決めようと思った。 
  専門学校に進学するのは嫌だった。でも、大学生活と違って、馴染めなくても2年耐えれば卒業できるから。将来の夢もなく、勉強も頑張らず入学してくる人がほとんどだと思うと憂鬱になったが、それはそっくりそのまま私のことでもあるので文句は言えない。何より、自分で決めたことだから、どんな環境であっても文句は言わないと、自分と約束した。 

専門学校の頃 


  入学当初はまだまだメンタルが不安定で、お昼休憩になると外に出て誰にも気付かれないようにしくしくしていた。絵を描く気力もなく、学校に通うのが精一杯。でも就職に役立つような国家資格は一年の時に取っておきたくて、学校の授業の進み具合は遅すぎるから、自分で勉強して取得した。(といっても、簡単な部類の国家資格ではあるので大したことでは無い)あとは就活の話題にできるように、ボランティアもしてみた。一回で終わったけど。
  唯一学校の授業を受けて良かったのは、Webデザインの授業があり、それに興味を持ったのでそこからは独学でHTML、CSS、JavaScriptをちょっと学び、ウェブサイトをいくつか作ってポートフォリオサイトを作成できたこと。就活の時にも実際デザインスキルがあったことで採用してもらえたらしい。クラスの中にもデザイン好きの人がいたので、その人とは一時期友達になって遊んだりもした。段々話すのが面倒くさくなって疎遠になったけど。 
  1年の後半、就活を考え始め、自己分析をする最中にmbtiを少し参考にしたりもした。とにかく就活は嫌だったので、お酒を飲みながらなんとか気力を保っていた。ちなみに、20歳になるまでは躁鬱でどんなに自暴自棄な時があっても、お酒は飲まなかったし、リスカ等もしなかった。ちゃんと規則を守れる自分でありたかったから。20歳超えてからはストレス過剰になる度それはもうごくごく飲んでるけど。 
 本格的な就活は3月あたりから初めて、5月前には第1志望の、自分の学歴からはよくやった方だと思う会社に受かったので、そこで終わった。デザイン会社にも応募してみたけど、普通に落ちたので諦めた。就職出来なかったら本当に死のうと思っていたので、受かっただけ良いかと思って。
 就活の最中、また絵が描きたくてたまらなくなってきたので、その後の生活はほぼ絵に費やしていた。youtubeにある講座なども見て、初めて独学でなく人のやり方も参考にしたりした。twitterも少しの間だけど、やっていた。当時視聴していたvtuberの方のファンアートを描いて、サムネイルにしていただいたり、良い事もあった。そして、21歳になる前に、出来るだけ絵を上達させて、中学生の頃に決めた目標を達成させなければならなかった。絵を一定のレベルに到達させること。
  私は、その時自分で描いた絵に、満足した。SNSでの評価は振るわなかったけれど、私は自分の絵の評価は、自分で決めたい。私は6年前、自分でかけた呪いを解くことができた、と思った。

当時描いてた絵。今見ると直すところは色々あるけど、個人的には満足

  その後、私はとある方の音楽と出会い、人生で一番の曲を見つけた。深く感動して、「この人の作る音楽で、何かを作りたい」と感じた。その方は曲を利用した二次創作可と仰っていたので、その方の曲を使った、当時はまっていたゲームの手描き動画を作って、投稿するようになった。再生数は数千~1万くらいと、そこまで人気とは言えなかったけど、コメントで「この作品が一番好き」、「見たいと思っていたアイデアが見れて良かった」といったコメントをいただく度、一人でもそう思ってくれたのなら作り続ける価値はあると思った。社会人になったらきっと忙しいから、今のうちにできる限りしたいことをしておこう。そんな感じで、また二次創作の小説も趣味で書いたりしていた。学校には就活用に通っていただけだったので、最早完全に行く意味がなくなり、卒業が危うくなるギリギリまで休み続けていた。  

社会人になってから~今



  ようやく社会人。まず、これから生きていくために何としてでも社会に適応していかなければならない。どれだけ辛くても、這ってでも行かないと。絵も封印して、幼馴染みの友人の「会社行って座ってるだけでいいよ」という言葉を心の支えにし、毎日何とか会社に行った。同期はおろか会社の人は大卒の人しかいなくて、劣等感に苛まれてはいたが、いい事もあった。同期の人はいい人たちで、男性は今までずっと苦手だったけど、案外男性と喋るのも楽しいかもしれないと思えた。    同期たちと飲みに行ったり、カラオケに行ったり、大学に行っていたらこんな事も出来ていたのかな、と密かに憧れていたことが少し叶った。     研修は大変で、相変わらずしくしくしながらも、1年目はそこまで難しい仕事は任されなかったこともあり、何とか会社に居座ることが出来ていた。ただ、その会社には女性が少なく、その代わりに女性陣は集まって昼食に行く、という決まりのようなものが存在した。当然私がこれに適応できるわけもなく。というかする気はなかった。でも新参者の私がいきなりどうこう言う訳にもいかないので、まず1年は耐え、2年目に差しかかるところでこれからは一人で昼食をとることを伝えさせてもらった。それからはよく知らないけど、女性陣はみんなで集まるルールは強制されなくなったらしい。
  また、お金を貯めて一人暮らしを始めた。一人暮らしのデメリットは本当にゼロで、家族のことを忘れている時が一番幸せだ。 

 2年目になると、絵を描く余裕も出てきた。ただ、仕事で別の作業場に行かされ、そこの環境が最悪だった。作業手順のマニュアルがなく、基本口頭のみ。かと思えば連絡ミスでマニュアルの存在を半年後に知る。定時まで作業内容が決まらず自習。定時後にやっと作業開始。夜遅くまでの残業。精神状態が悪くなっていくのがわかったし、転職を考えていたが、休職制度を知って病院に行き、診断書を貰い、休職することにした。休職するかどうかで上司とはかなり話し合って、その間にメンタルも多少回復してしまってはいたのだが、私は今までクソみたいな仕事に奪われた人生の時間を取り返したかったのだ。だから何としてでも休職はしたかった。だからした。 
   休職中は海外の配信者にハマり、英語を勉強し始めた。一日中休みなので、ハマりたての頃は24時間続けて配信を見ていた日もある。おかげで休職を終える頃には簡単な会話は理解できるようになってきた。今年中に何らかの資格でも取れたらいいな。 
   仕事に復帰した後は、デザインに関係する仕事を任せてもらい、今は苦手なプログラミングも出来るようになればいいなと思いながら仕事を続けている。デザイン業を諦めてIT会社に入ったのに、仕事でデザインが出来るようになるとは思っていなかった。ある意味、夢が叶ったのかもしれない。 
   もう一つ、夢が叶ったことがある。ブラック労働時代になんとか作り上げて投稿した動画が、最近5万再生になっていた。いつか3~4万くらい動画が伸びればなあと思っていたが、想像を超える結果となった。ようやく、私の人生の夢の、スタートラインに立てた気がした。私の作ったもので、私の存在を世の中に残すこと。次は10万だね。 
   それから、最近は同期の中でも特に仲の良い友人が出来て、一緒にゲームをしたりしている。この人にもタイプ診断を受けてもらったところ、INTPだそうだ。同じNT型だとこんなに話しやすいのか。  
   私の人生の目標。今でも、漫画家になりたいと思っている。今年は動画に集中して、来年には漫画を応募してみたい。でも、もしかしたら漫画家になるのも違うのかもしれない。絵を通して、または文章を通して、自分のアイデアが伝わるなら、youtubeでもいいかもしれないし、小説家でもいいのかもしれない。
   ここ最近になってようやく、中学生の頃と同等くらいには、メンタルが安定してきた。もう少しすれば、INTJ-Aになれるかもしれない。笑 
   今は私は、もう一度自分のことを見つめ直して、正体を探って、人生の目標や、何が幸せなのかを見つける必要がある。 
  人生最後の日に、自分の人生の中で、どれだけ実績解除できたか、一覧を眺めて満足したい。幸せであってもなくても、納得のいく人生だったと思えるようになればいい。

結論

私はINFJ?
違うと思う。性格タイプの説明を見た当初は、このタイプもありえるかもしれないと思っていた。私は数学にも経済にも興味はなく、文系で芸術が好きなので。でもINFJについて調べるほどに、私のことを言っているようには思えなかった。私は人の為には動けない。徹頭徹尾、自分のため。特に人望も無いし、世界がこうなればいい、なんてものもない。みんなが幸せになるかはどうでも良くて、私のすることが役に立つか、立たないかというだけ。
私はINTP?
これは迷った。もしかしたら、そうであるかもしれない。私は全ての物事に対して計画を立てるわけでは無いし、計画してもその通りに実行できないこともある。新しい物事にはまっても、すぐに冷めてしまう時もある。難しい。けれども、私は気の向くままに興味のある知識を収集するのではなく、現実にも役立ちそうで、なおかつ興味のある知識であれば収集している気がする。人生の中では計画を立ててきた場面が多かったし、将来のことについてよく考え、対策する傾向があると思っている。
私はINTJ?
きっとそう。やっぱりそうだと思う。解説や色々な記事を見て見ても、やっぱり一番当てはまり、納得出来るのがINTJだと感じた。大して頭もよくないし、数学も政治も興味ないけれど。物事の考え方がINTJ的なのだと思う。結局はmbtiは自分で決めるものらしいので、今後新たな可能性が浮上するまでは、私はINTJタイプだと名乗っておこうと思う。

以上。もし読んでくださった方がいるのであれば、ありがとうございました。

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