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902回目:【紹介】インドのダージマハール〜デリーを少し深掘りする件〜

2024年02月20日の備忘録

2010年02月の今から丁度14年前、私は高校時代の相棒とインドをバックパッカーで旅をした。当時は大学四年生。学生最後の時間を使って、どこか1発面白いところに旅に出てやろうと若気の至りで決断したその先がインド。まさかその10年後、自分がその国に5年近く住むことになるとはその時は一ミリも想像していなかった。その時の思い出を頑張って振り返り、「今のインド」と比べつつ、インドと言えばここ!と言われる観光スポットを少し紹介したいと思う。

2010年らインドをバックパッカーした時のコースは、デリーから入国し、アーグラ、バラナシ、ガヤ、コルカタと、北西から東へ向かうコース。その移動手段は全て寝台列車だった。それから14年立った今、以前一度だけ寝台列車で移動したことがあるが、その経験から察するにそこまで環境は改善されていない。。

2010年インドの寝台列車

【1】デリーの見どころ

【1-1】デリーと、ニューデリー

「デリー」とは、どこの州にも属していない行政直轄区があり、それがインドの首都デリー。どこの州にも属さない。そして、そのデリーの中にあるエリアのひとつが、「ニューデリー」と呼ばれている。元々、インドの首都は「コルカタ」だった。しかし、1911年にイギリス植民地化のインドは、イギリスの煽りを受け、コルカタからデリーへ移転した。その時に、区画が整備され、首都としての街並みを作るべく誕生したのが「ニューデリー」。

【1-2】インド門

デリーの見どころといえば、まずは「インド門」。これは、「慰霊」だ。1914年世界第一次大戦の際に、イギリスの支配下にあったインドは、「インドの独立」を条件にイギリス側連合軍に手を貸すと約束した。戦時中、インドの兵士に大量の血が流れたが、結局インドの独立は叶わなかった。その時戦死した兵士を慰霊が祀られ、戦死した方々の名前が門に彫られている。そんな遺恨の念を持つ門が、このインド門だ。

【1-3】世界遺産:フマユーン廟

最愛の妻に捧げた霊廟タージ・マハルが建つ100年前にも、インドでは配偶者の死を悲しむ王族の物語が残る霊廟がある。それが、インドの首都デリーの中心部東南端のプラーナ・キラーの南に建つ「デリーのフマユーン廟」。「デリーのフマユーン廟」はムガル帝国の第2代皇帝フマユーン霊廟と庭園から構成されるインドの世界遺産。フマユーン霊廟は、ムガル帝国第2代皇帝フマーユーンの遺体が眠る霊廟。ムガール帝国はイスラム国家。皇帝フマーユーンの遺体が眠る霊廟からは、彼の奥さんに捧げた霊廟も近くに建立されている。インド人の中では、この「フマユーン廟」が、「”ミニ”タージマハル」とも言われている。入場料は、外国人は400ルピー(750円)、現地民60ルピー(110円)とインバウンドを狙ったあからさまな料金の徴収に合う。私は、インドに住んでいる日本人。そこを試しにゴリ押ししたら、なんと現地民価格でチケットを購入できた。ただ、入場ゲートで再度止められる羽目にあい、そこはゴリ押ししてことなきを得た。

【1-4】New Delhi駅

かつてバックパックで深夜にここに到着し、物乞いから追いかけられ、相棒のTシャツが破かれ、近くのメインバザールというバックパッカーズ宿が集まる地域に逃げ込んだのは懐かしい思い出。今も大量のインド人が床に寝て電車を待っているが、2019年に妻と言った時にはそれ程驚異を感じる事はなかった。むしろ、こんなイルミネーションあったかなぁ?と思うほど。少し進化した。ただ、駅の構内などは2010年の頃とあまり変わっていない気もする。

【1-5】世界遺産:タージマハル

ここ近年、デリーの大気汚染が深刻化し、ただでさえ白いタージマハルが、PM2.5の霧に包まれ空気と同化。なので、訪問時は天気と同時に、大気汚染もチェックが必要。

2019年に訪問した時は運良く超快晴


2010年に訪問時は霧で真っ白

デリーからアーグラは車で四時間。2019年当時で、お車代は運転手付きで1日約1万円。バックパックの時は電車で荷物背負って移動したがこちとらもういい社会人。安全と楽さを選択した。無論、現地ガイドを専門につけた。

タージマハル(Taj Mahal)は、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟。インド・イスラーム文化の代表的建築。17世紀インドの一番偉い王が、第3夫人を溺愛し、夫婦生活19年間のうちで14回も妊娠させた。しかし、出産が成功したのはそのうちの子供は6人。第一婦人と第二婦人には子供ができず、一番愛した第3婦人が死際に約束を求めた。一つ目、私が死んだ後は誰とも結婚しないでほしい。二つ目、私が死んだら私のシンボルとなるものを何か残して欲しい。そして、作られたのがTaj Mahal。

着工が第3婦人死去後の1631年。22年、そして、2万人の労働力をかけて作られた。2万人のうち60%はインド人、40%は国外からだった。ただ、この Taj Mahalを作るという労働は当時でも高収入労働だった様だ。材料は、主な原料となる大理石はラージャスターン地方からラクダで運んできた。白の大理石の中に装飾として埋められている宝石は、海外から海と河川を使って輸送された。川がタージマハルの直ぐ横にあるので全部の材料を河川輸送してたかと思えばそうではない。何故なら、大理石の発掘場ラージャスターンジャイプールには、ここにつながる川がない。大理石は陸送されてアーグラで施工された。総工費は、40millionルピー。しかし、この費用の中には大理石を含めたインド国産原料価格は含まれていない。何故なら、王の仕事なので、国産の原料は「無料」だったようだ。また、ここアーグラは、大理石を掘ってその中に石を埋め込んでアートを作る産業が盛んで、その技術を用いて Taj Mahalの装飾が行われた。(現地ガイドより)

案の定、現地ガイドから説明を受けた挙句、その地に根付いた産業のお土産屋に連れてかれ、大理石に埋め込む技術を見せられ、突然大理石のテーブルをプロモーションされ、最終的には大理石の象の人形を買わされたのは言うまでもない。しかし、こちとら商社マン。一個2000ルピー、を一個1500ルピーまで値切り、最後は二個で2000ルピーでたたきおとした。果たしてこれが本当に安いものだったのか、高いものだったのかは分からない。しかし、確実に言えるのは、今の僕にこれが“必要なものではない“ということは間違いない。この意味不明な象の置物は、北京の妻の家に飾ってある。

象の置物の話はどうでも良いとして、Taj Mahalの中には、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンと彼が溺愛した第3婦人の遺骨が地下に眠っており、そこは、政府のトップや大統領クラスでないと開かない扉となっている。それらしき、棺桶が置かれているが、これは実は一般観光客用にレプリカ。とはいえ、レプリカが入っている部屋の中はもちろん撮影禁止。にも関わらず、写真を撮りまくる皆の衆。私は、その時に、「なんで、みんな撮っているの?」と、聞けば、「ここは、インド、オフィシャルには写真取らないでくれと言うが、自己責任でならとっても良い」と、インド人らしい彼らなりの説明を受ける。ただ、当時の僕にはここで写真を撮る勇気は無かった。

そして、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンは、第3夫人との約束を見事果たし、Taj Mahalが完成した。さて、今度は自分の Taj Mahalを立ててやるかと思いきや、もう既に財政難。自分のTaj Mahalを作る金はなかった。それが、川を挟んで反対側にあるブラックタージマハル建設予定場。基礎まではできていた。

その後、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの実の息子が王の実権を握り統治。Taj Mahalを建てた元王は、アーグラフォートという場所に幽閉された。息子からの親孝行なのか、せめてタージマハルが見えるところで幽閉された。いやいや、そもそも親を幽閉するなよとツッコミたくなるのだが、それなりの理由があったのだろう。その建物がこちら、「アーグラフォート」。

【1-6】世界遺産:アーグラフォート

デリーからアーグラへの遷都に伴い、皇帝アクバルが1565年に着工して1573年に完成した。その後ジャハーンギール、シャー・ジャハーンまで3代の居城となった。アウラングゼーブが兄弟間の後継者争いに勝つと、父であるシャー・ジャハーンをタージ・マハルの見える城塞内の「囚われの塔」(ムサンマン・ブルジ)に幽閉してデリーに移った。外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されている。ムサンマン・ブルジの内壁や床は幾何学的な装飾が施された白大理石でできている。

1983年にユネスコの世界遺産に登録された。

【1-7】エアロシティ

2010年にバックパッカーをした時には、まさかこんな施設が出来るとは想像もしなかった。エアロシティは、2013年オープン、デリーのインディラ・ガンディー国際空港から約3kmのところにある商業エリア。徒歩30分ぐらいで一周できてしまいそうなものすごく限られたエリアに、マリオットやハイアットなどの高級ホテル、オフィスビル、ショッピングモールやレストランなどが乱立。取り敢えず、インドのデリーに到着し、ホテルがどうもエアロシティの中にあると分かれば、安心し切って大丈夫。私個人的には、エアロシティ内フードコートの中にあるラーメン屋「KUURAKU RAMEN Delhi Aerocity」が超おすすめ。ここのコッテリラーメンは、日本の「天一」のコッテリラーメンにそっくり。

少し歩けば、「銀座」と言う日本食レストランもある。私はここのたぬきそばが好き。「Aloft New Delhi Aerocity」と言うホテルの中に入っている。

こんな感じで、2010年と比べ、2024年となった今、だいぶインド変わったなと、自信を持って言いたいところ、「案外変わってない」部分も多いのが本音。ただ、初めてインドに降り立つ方々は、きっとデリーに降り立つはず。このブログの情報が少しでもタメになってもらえれば幸いだ。

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