共感する才能、共感しない才能

日経新聞にPR TIMESの、こんな広告が掲載されました。

PRのピーは、パッションだ。

あなたが生み出す、情熱。あらゆるプロジェクトは、そこから動き出す。
私たちは知っています。
そのひとつひとつの発表の裏側に、悩み、ときに、勇気を振りしぼり、
励まされ、助けられ、希望や信念を胸に、
一歩ずつ、前に、進んでいった人たちがいることを。
見えない努力と同じくらい、見せるべき努力があることを。

私たちが届けたいのは、そこにある「情熱」だ。

夢中になれる、情熱がある人の言葉は、ときに人を、社会を動かします。
だから、PRに携わる人間は、その代弁者として、共感し、夢中になり、情熱的でなければいけないのでしょう。

一方で、同じPRという仕事にも携わっておきながら、自分は夢中な人たちの言葉が、ビジョン、ミッションを語るコーポレートサイトの言葉たちへの共感力が低い。
尊敬はするけど、共感しないように“している”、という表現のほうが正しいかもしれません。
(本性は「天才志村どうぶつ園」を見て、簡単に泣けるタイプの人間です)

それは、夢中や共感は「村」を形成することを、実体験として、分かっているからかもしれません。
古賀史健さんのnoteに、こんな記述があります。

むかし、ある専門誌(当時数十万部の発行部数を誇っていた雑誌)の編集長さんに取材したことがあるのですが、彼は何年かに一度誌面を大幅リニューアルし、古い読者の「卒業」を促すのだとおっしゃっていました。そうしないと専門誌のコミュニティは閉鎖的な「村」になってしまって、あたらしい読者が入ってこなくなる。あたらしい編集部員も育たず、やがて雑誌全体が小言めいた年寄りの集まりになって衰退の一途をたどる。だから誌面のリニューアルと「いまさらその話?」的な内容のローコンテクスト化で、雑誌全体にあたらしい風を入れるのだと。

共感の輪をつくれる言葉や情熱をもつ人への憧れもあるし、尊敬します。
しかし、ときには、村八分も覚悟で、村が「閉鎖」しないよう、その言葉に共感しない、夢中にならないことも必要ではないのかなと。

たとえば、長年同じような売り場で、同じような人に、同じようなコミュニケーション施策で、売る側も買う側も固定化していたランニングタイツ市場で、デスクワーカー向けに「PCスーツ」と打ち出し、福利厚生市場やヨドバシカメラで展開したのですが、そのときに意識していたのは村の外との「入り口のデザイン」でした。

同じように、働き方改革とサウナを結びつけ、村の外との「入り口のデザイン」を試みたのが「コワーキングサウナ」です。

働き方改革とサウナを結びつけるために、「集中力8秒の現代人のための、コワーキングサウナ」というコンセプトを、割と強引にねじ込んだのですが、それは利用者がサウナのうんちくを語ってくれる、愛されている状態に対する、直感的な危機感があったためでもあります。

「サウナに入るのではなく、水風呂に入る」といううんちくは、それを聞かされる側を、ときにお腹いっぱいにさせることがありますが、語る側は、愛は盲目であるが故に、満腹のシグナルに気付いていないことがあります。
その積み重ねで、閉鎖的な村ができることに対する危機感が、「働き方改革」という新しい文脈をとりいれる動機でした。

共感できること、夢中になることは才能です。
その言葉は、ときに人や社会を動かすので。
同様に、共感しないことも、夢中にならないことも才能です。
その言葉は、ときに「村」の外の人や社会を動かすので。

夢中や共感が叫ばれる中で、肩身の狭い思いをしている人間の、静かな抵抗です。
こんなnoteを書いていたら、鉢合わせた書籍があるので、貼っておきます
(※読んでません)

共感≠善
無条件に肯定されている共感にもとづく考え方が、実は公正を欠く政策から人種差別まで、社会のさまざまな問題を生み出している。
心理学・脳科学・哲学の視点からその危険な本性に迫る、全米で物議を醸した衝撃の論考。

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