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青天の霹靂

目を疑う出来事があった。

いつもどおりになにかをしようとして、そのいつもどおりにいかないとき、眼前の状況が受け入れがたく、わたしたちは自らの目を疑う。そしてほどなくして目に映った状況が疑いようのない事実であることを確認して諦めざるを得なくなる。

唐突に予想外の展開に見舞われることを“青天の霹靂”などと言うけれど、それはあくまで発生する事態についてであって、その状況を克服することを諦めるところまでは含まれていない。この心象にはなにか名前がつけられたことがあるだろうか。

傘を持たずに外出して土砂降りにあったときとか、一張羅のシャツにシミを付けてしまったときとか。もっと深刻な事態で、旅行中に交通機関が止まって計画が大幅に狂ったとか。

悪足搔きかもしれないけれど、いや、悪足搔きであれ良足搔きであれ、諦める前にささやかな抵抗をしなくては口惜しい。かつてそう簡単に諦めてはいけないと教わったのだ、すくなくともわたしたちの世代は。でもまぁ大人になってから諦めが肝心だとかいったご都合主義も学んだわけだけど。

起きてしまったことは仕方がないけれども、わたしたちにはその状況でベストを尽くす使命がある。どうせと思って何もせずにいるのと、やってみて足搔いてみてからの結果を受け入れる“諦め”のあいだには、その後の未来を左右するに違いない大きな大きな隔たりが横たわっている。

最近わたしが目を疑った丶丶丶丶丶のは、いつもどおり愛用のMacBookを使おうとしたときだった。

画面が真っ暗。いつもスリープ状態にしているから、すぐにスリープ解除画面が表示されるはずなのに、このときのMacBookは眠りから醒める様子がなかった。かくなるうえは強制再起動。電源ボタンを長押しして現れたのは見たこともない“?”マークのついたフォルダアイコン(見出し画像参照)。昔のMacは泣き顔のSad Macとか爆弾マークとか、もっと茶目っ気があったのになぁなどと心が現実逃避してしまう(もちろんけっしてそれらを見るのが嬉しかったわけではない)。

よく雷が落ちたりして電圧変化の影響でコンピュータが壊れる話があるけど、そんなことはあっただろうか?あったとすれば文字どおりの青天の霹靂。いや、それならばほかの家電なんかもやられるはずだから違うか。兎にも角にもわたしのMacBookは動いてくれない。

ふだんわたしはnoteをMacBookで書いている。noteの良いところは執筆途中のものがnoteのサーバに保存されていることだ。別の端末からログインしても続きが書けるし、そうしてバージョン違いができてしまっても、どちらを残すかをきちんと選べるようになっている。

noteをはじめた頃は、MacOS付随のPagesという文書作成ソフトで書いて、それをnoteのウェブサイトにコピー&ペーストしてアップロードしていた。しかしだんだん面倒になって、わりと早いタイミングでnote内だけで執筆・推敲するようになった。たしかドラッグ&ドロップで段落を移動できるように仕様変更されたときがあって、そのタイミングだった。そのドラッグ&ドロップ機能はいつの間にかなくなったけど、そのままnoteのウェブサイトで書く習慣が定着している。

今月の17日、わたしは国際宝飾展で講演会をすることになっていて、それまでに書きかけだったnoteを仕上げるつもりでいた。そうして前々日の15日に帰宅してから下書きの続きを書こうとMacBookを開いたものの、先に書いたような青天の霹靂、“?”マークしか表示されないという事態に見舞われたのだ。

はじめの頃のようにPagesで書いていたら、書いた内容をすっかり失っていたところだ。

そういえばつい10年ほど前までは何度かそうしたトラブルや盗難にあって痛い思いをしたんだったなと思い出す。今はかなりのデータをクラウドで共有できているから、いくぶんかマシだ。でもまだMacBookにしか保存されていなかった大切なデータはある。

noteはこれまでも途中でスマホから加筆修正することはあった。その要領でスマホのnoteアプリで書き上げてアップロードすれば良い。今回は大半を書いていたから、あとはスマホからでもなんとかなる。

そうしてこの記事をアップロードしたのが16日の深夜。書きかけのまま講演会を迎えたくはなかったから、なんとか間に合った形だ。

noteの記事はさておき、肝心のMacBookは使えないまま。なんとか復旧できないかとあれこれ試したけれどどれもダメ。そうなのだ。このような事態に見舞われて何もなかったかのように復活したためしなんてないから、ひととおりやったらそれこそ諦めが肝心なパターンになる。

じつをいうと、昨年後半にうっかりMacBookに麦茶をこぼしてしまって一部のキーボードが反応しなくなっていた。それがdeleteキーと上下移動のキーだけだったものだから、入力はだましだましなんとかなってしまっていたのだ。カーソルの上下移動はトラックパッドで対応、削除はdeleteの代わりに削除したい箇所を選択して再入力することで修正した。手間はかかるけど慣れると意外と気にならないものだ。

そのときがバックアップをとって対策しておくチャンスだったのかもしれない。

我が家にはしばらく使っていないデスクトップマシンiMacがある。2019年のモデルだから、けっして使えないスペックではない。むしろ壊れてしまったMacBookよりも新しい。

あらたにMacBookを買う余裕なんてないから、わたしにできることはそのiMacを整備して使うぐらいだ。

じつはこのiMac、次男に使わせていた事があって、プログラミングソフトやマインクラフトが入っている。それらをカスタマイズするためのシステム改変がされているせいか、やたらと動作が遅いという難点がある。整備するまでのハードルが高い。

この期に及んでもはやそんなことは言っていられず、システム管理ソフトを購入してクリーンアップすることにした。そのソフトはCleanMyMac。Apple社が公式に認めている唯一のシステム管理ソフトとのこと。

そうして不要なアプリケーションを削除し、システム関連のゴミも掃除した。OSも最新版にアップデート。でもどうしたことか、動作もネットも遅い。耐えられないほど遅い。

やむなく次のnote、21日の音楽もスマホアプリで書いた。このときも書いたけど、勝手が違ってかなり書きにくかった。

・・・こうして“時代は変わる”のか。

原因はわからないままなのだけど、とにかくiMacを整備した。標準搭載のApple Mailは設定し直した。

メールサーバに溜まっていた未読メールはなんとか読み込めた。スパムメールが多いのでメールサーバがパンクする懸念があったのだけれど、それは免れたようだ。ただ、それ以前のメールは失ってしまった。

あと、ほかに失ったのは画像データ。おもに絵の高画質画像。一日一画のものはネットにアップロードしたものがあるけど、印刷クオリティのものとかフォトショップのレイヤーがあるフォーマットはその大きさゆえにクラウドにバックアップはとっていなかった。

愚かなことをした。大きなものこそバックアップをとるべきなのに。

そしてさらにデータベースも失った。蔵書票を使って管理していた書籍データベース。そして鉱物や宝石のコレクションデータベースも。これを作り直すのには相当なエネルギーが要る。もうちょっといろいろと落ち着くまで、再構築にはとりかかれそうにない。

しかしまぁ、そのほかはクラウドのバックアップのおかげで生き残った。不幸中の幸い。

そして何度かクリーンアップを繰り返してそれなりに動きはじめたiMac。入力方法などの設定を見直してようやく作業らしい作業ができるようにはなってきた。

ここまでこのnoteはスマホアプリで書いていた。アプリ自体もアップデートを重ねてウェブサイト上と操作感を近づけてくれているから以前より扱いやすくなったものの、小さな画面での長文の推敲には限界がある。

iMacもなんとかそれなりに使えるようにはできたから最後はウェブサイト経由で仕上げて公開しよう。

そうは思ったものの、noteにアクセスしようとした矢先に思わぬ“青天の霹靂”。

「ワタシを愛でなさい」圧のモカさま、華麗にキーボード操作をブロック。

結局それは断念して、翌朝の通勤電車でスマホアプリから更新することにした。やはり今回の一件はnote執筆の仕方を見直すべきときだということなのかもしれない。

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