桂田祐介

一日一画を始めて早19年。画材はオイルパステル、鉛筆、筆ペンなど。詩情あるリアリズムを…

桂田祐介

一日一画を始めて早19年。画材はオイルパステル、鉛筆、筆ペンなど。詩情あるリアリズムを標榜。たまに個展。生計をたてているのは宝石の鑑別。今年より日本旗章学協会の2代目会長。関西出身。猫4匹の下僕。音楽、言語、文字、地図、哲学、多岐にわたっていろいろ関心あり。

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  • 21日の音楽

    2022年9月より、毎月21日に好きな音楽の動画(または音声)について、ひとりよがりに紹介しています。

  • 展覧会の絵

    出かけた美術展について書いたnoteを集めました。

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    わたしの投稿から旗と紋章にまつわるものをまとめました。

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    我が家の猫たちについて書いたnoteをまとめます。

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    Tumblrがらみのnoteが増えそうなのでマガジンつくりました。

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連作から見えてくるものは・・・

このところ、ぼんやりと考えていることがある。 表現あるいは創作において、おなじことや似たことのくりかえしに意味はあるのか、あるとすればなにが表現でき、なにが得られるのか。 先日のnoteで、「印象派・光の系譜」展のモネ《睡蓮の池》について触れた。 モネの睡蓮シリーズは、連作だ。連作という語を調べると、だいたい以下のような説明が見つかる(下記引用はデジタル大辞泉より)。 モネの”連作”は、睡蓮だけではない。大聖堂とか、積みわらとか、ポプラ並木とか、やたらとある。考えれば

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      Moon River by Audrey Hepburn

      昨日、東京の虎ノ門ヒルズで行われているTiffany Wonder展に足を運んだ。これはあのジュエリーブランドのティファニー社の大規模な展示会で、じつに500点ものアイテムをじっくりと観ることができる。 これは単なるジュエリーの展示会ではない。特別に制作された巨大タペストリーでの歴史紹介にくわえて、石留めや研磨、手彫りの職人さんの実演などもある。こうしたジュエリーの展示以外のひとつに、ティファニーの名を冠した映画「ティファニーで朝食を」のコーナーもあった。 ヒロインのホリーを演じたオードリー・ヘプバーンの衣装や小物とともに大型スクリーンで流れる映画の一場面。そこにはアパートの非常階段前の窓際でオードリーがテーマ曲Moon Riverを歌う映像もあった。 歌手ではないオードリーが口ずさむ飾らない歌声。彼女の狭い音域にあわせて作曲されたなんて話があるけど、だからこその自然さ、気取らなさが、ひとりの女性の本来の姿を浮かび上がらせている。そこにあるのは、歌手の歌声ではない、俳優の歌声の魅力とでも言うべきなにか。 ある人を想って歌う歌、思い出を振り返って歌う歌、そうしたテーマはありきたりだけど、それらをさり気なくにじませたこの曲の歌詞はこの場面のオードリーにぴったりだ。 映画の中ではティファニー社は、高級娼婦的なホリーの側面を象徴するラグジュアリーブランドとしての役割だった。しかし、この歌とオードリーのイメージがあったからこそ、ラグジュアリーなのにどこか清楚なブランドイメージが定着したのではないか。 たまたま昨日虎ノ門ヒルズで聴いたこのMoon River。歌のプロではない、市井の人びとの口ずさむ歌って、こうだよな。心を揺さぶる歌唱力や超絶技巧の演奏力はもちろん良いのだけど、これもまた素晴らしい音楽だという気づきがあった。

      • 天下を取った成瀬あかり

        今年の本屋大賞は『成瀬は天下を取りにいく』。いやはやこんな形で天下を取るとは!いかにも成瀬らしい展開ではないか。 いつもはあまり発信しない高校時代の旧友が何名もソーシャルメディアで触れていたのを見た。 ローカル色の強い小説だからか、なおのこと母校や実家まわりで盛りあがっているに違いない、と思ったり。これを機に西武百貨店が大津に再進出を検討してくれまいか、なんて妄想してしまった。 せっかくだから、わたしが昨夏に書いていた読書感想文を引っ張ってこよう。もしよければ読んでね!

        • 大西洋をわたった印象派

          ちょっと日常に追われていたら、いつの間にか春分を過ぎて春になり、3月がほんとうに去ってしまった。4月になって早くも1週間が経とうとしている。 季節といっしょに記憶が過ぎ去る前に書いておかないとと思うことが多い。そのひとつは2月に足を運んだ東京都美術館の「印象派 モネからアメリカヘ」。米国マサチューセッツ州のウスター美術館所蔵作品を中心にした展覧会だった。 このところ印象派の展覧会が多いように思う。とりわけクロード・モネにフォーカスしたものでは、上野の森から大阪に巡回した「

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          Martha (Tommy) by Bette Midler

          まさかの2回目のMarthaはベット・ミドラーによるカヴァー。トム・ウェイツはトム・フロスト(男)からマーサ(女)への呼びかけだったけど、このカヴァーではベッツィー・フロスト(女)からトミー(男)へと変わっている。そして40余年の設定が半分の20余年に。 20年。結婚23年目のわたしには別の含みをもって聴こえてしまう・・・が、ここは素直に若き日の想い人への呼びかけということで。 ベットはトムとのデュエット曲 I Never Talked to Strangers を収録したアルバム Broken Blossom にこのカヴァーを入れたかったとか聞いたことがある。なにかの事情がそれを許さず、ライブで歌われただけだったようだ。 情感たっぷりに、かつての薔薇と詩と散文の日々(the days of roses, poetry and prose)をふりかえる。あの頃は若くて愚かだった(we were all so young and foolish)とふりかえる。 ベットはトムに恋をしていたのではないかとすら思えるその歌いぶりはさすがだ。 先日、石山寺を訪問したことを書いた記事で、わたしは大河ドラマ『光る君へ』について触れた。ドラマで現在進行中のまひろと道長の恋路は史実から成就しないことが明らかだ。けれど、互いにずっと想い慕いつづけて老境に達した頃には、あのふたりは和歌と漢詩を交わした日々を若者らしく愚かだったと省みるんじゃないだろうか・・・と、そんな想像をしてしまう。 あぁこの感覚、トムの歌うMarthaみたいだなと思ったら、ふと、このベット・ミドラーの歌うカヴァーをも思い出した。 歌の中のトム・フロストもきっと忸怩たる思いでマーサと別の人生を歩むことにしたのだ。そしてそれを読みとったベットは、同じくすれ違う恋物語を歌うためにカヴァーした。マーサとしてではなく、自らを投影したベッツィーの名で。では、ベッツィーの恋の相手トミーは誰? ベット・ミドラーはちょうどトム・ウェイツとのデュエットで見知らぬ男と恋に落ちる歌を歌った直後。このカヴァーは20年後を想定したのかも。 ベッツィーはフロストの姓を名乗っている。トム・フロストの配偶者?とするとさらに別のトミー(トム)がいる?それとも愛するトム・フロストと結ばれた想定でそう名乗っている? そんな妄想をしたら、紫式部が道長をモデルに光源氏の物語を書いた説がとても有り得そうだと思えてきた。

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          ハタと気づけば

          何度か書いているように、わたしは日本旗章学協会に所属している。わたしが入会したのは11年前に本格的に帰国してからなので、ハタと気づけばすでに10年以上が過ぎている。 じつはその何年も前から何名かの会員とはネットを通じてやり取りがあった。当時はまだブログ全盛期で、ソーシャルネットワークはまだ黎明期と言ってよく、ハタと気づけば国産SNSのミクシィが流行りはじめた頃。そのミクシィの国旗コミュニティで活発にやりとりをしていたのがきっかけになった。いつも尋常じゃない数の旗画像と関連情

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          紫式部ゆかりの石山寺で花々を観る

          1月は“行く”、2月は“逃げる”、3月は“去る”。 1月は“去ぬ”だったかもしれない。誰が言ったか、年が改まってからのこの時期、時間はたしかに特別に駿足で過ぎてゆく気がする。 先日公開したミネソタ州旗のnoteも、2週間前に日本旗章学協会の会合で話したあと、せっかくだから書いておこうと思いたって書き始めた。ところがまとまった時間がなく、気がつけば公開するまでにそれだけ時間が経ってしまった。この時期はそんな時期なのだ、と言いのがれをしたくなる。 そんな忙しないこの時期、関

          紫式部ゆかりの石山寺で花々を観る

          ミネソタ州旗のデザイン変更にみる新たな旗章学

          昨年末に書いておいてそのままになっていた米国のミネソタ州旗のこと。 途中経過のままで放置するのは気持ちが悪いので続報を書いておく。 前回書いていたように、ミネソタ州議会の州章・州旗の変更に関する専門委員会(State Emblems Redesign Commission)で最終候補が絞り込まれた。その後デザインの微調整がおこなわれて、最終的な新州旗が決定した。あとは州議会での承認を経て5月11日に正式に掲げられるのを待つのみ。 6点の候補が選ばれた時点で透明性に疑義を

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          Valentine Moon by Sam Brown and Jools Holland

          2月といえばバレンタイン。本邦では女性から男性にチョコレートを贈るのが定着して久しいけれど、国によっては男性から女性に花束を贈ったりして、作法はいろいろ違っていてもロマンチックなイベントになっている。そんな時期に流れるバレンタインソングもどこか甘酸っぱくて切ない。 The first time you kissed me at the end of our street The gas lamps shone above us, young lovers we’d meet ノスタルジックな情景描写ではじまるこの曲は、時とともに変わってしまった街の姿をよそに、変わらず輝き続ける月光と恋心を歌ったものだ。 But the old town has gone now and it’s winter too soon Still we waltz beneath our valentine moon ガス燈(gas lamps)と聞くとあのイングリッド・バーグマン主演の映画を思い出すせいか、サスペンス的な不穏さを帯びてくる。ワルツから連想するのはオーストラリア民謡のWaltzing Matilda。放浪するという別の意味がある。 We danced together as old lovers do 冬が来るとか過去形の言いまわしに、もしやふたりの関係も過去のものなのかと思わされるけどどうなのだろう。 Cette fois tu m'embrasses, au bout de notre rue Les lampes de gaz nous allumiere, toi et moi jeunes amants 後半にフランス語で歌われるのは、冒頭のガス燈の下での口づけを受けて、今度はあなたがキスしてと歌う。単純なラブソングととらえるには引っかかりのある含みに、心のどこかがちくちくする。 toi et moi というと、大きさのそろったふたつの宝石が寄り添ったデザインのリングを指す。クロスオーバーといって、斜めの互い違いのレイアウトが典型的なので、これまたどこかにすれ違いを思わせて、駆け引きがあるような単純ではない大人の恋を思わせる。 どこまでが意図されたものかはわからないし、多分にわたしの考えすぎなのだろうけど、そんなところもこの曲に惹かれるところ。 歌っているサム・ブラウンは昨年ジョージ・ハリスンの曲のカヴァーで紹介した英国のシンガー。ジョージ最後の曲が収められたジュールズ・ホランドのアルバムを買ったおかげで知ることができた。素敵な音楽とはどこで出会えるかわからない。

          Valentine Moon by Sam Brown and Jools Holland

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          色は光なり。小路の向こうは彼岸なのか。

          ちょうど1年前の2023年2月から数ヶ月間アムステルダム国立美術館で行われたフェルメール展。ただでさえ少ないフェルメール作品が28点も展示されたという空前絶後の展覧会だった。チケットはあっという間に売り切れ。それだけの作品を集めることができるとは、さすが本場のオランダである。 そのフェルメール展の開幕時、やはり欧州ではたいそう話題になっていたようで、ネット検索すると幾つも記事が見つかる。一昨年の《窓辺で手紙を読む女》のように、展示される作品の修復や調査で新事実がわかったりし

          色は光なり。小路の向こうは彼岸なのか。

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          note記事を使って小冊子をつくってみたよ。

          note記事を使って小冊子をつくってみたよ。

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          青天の霹靂

          目を疑う出来事があった。 いつもどおりになにかをしようとして、そのいつもどおりにいかないとき、眼前の状況が受け入れがたく、わたしたちは自らの目を疑う。そしてほどなくして目に映った状況が疑いようのない事実であることを確認して諦めざるを得なくなる。 唐突に予想外の展開に見舞われることを“青天の霹靂”などと言うけれど、それはあくまで発生する事態についてであって、その状況を克服することを諦めるところまでは含まれていない。この心象にはなにか名前がつけられたことがあるだろうか。 傘

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          The Times They Are A-Changin’ by Sinéad O’Connor

          先日、地図について書いたときに最後に取り上げたボブ・ディランの名曲The Times They Are a-Changin’ (時代は変わる)。この曲は多くのシンガーにカバーされている。もともと変化に乏しい曲調のせいか、どれも歌詞のメッセージがはっきりと伝わってくる。 いつのものか不明だけど、昨年56歳で他界したシネイド・オコナーが歌うバージョンを見つけた。 先のnoteでは断片的に歌詞を引用していたけれど、じつは公開直前に削除した引用部分がある。描写が津波を連想させて、記事のテーマ的に不適切な感じがしたからだ。以下、その部分と拙訳を書いておく。 admit that the waters around you have grown and accept it that soon you'll be drenched to the bone 周りの水がどんどんと増してきて、 骨の髄まで浸ってしまうのを受け入れざるを得なくなる if your time to you is worth savin' then you better start swimmin' or you'll sink like a stone for the times they are a-changin' 自分の時代に救う価値があるなら いますぐ泳ぎだしたほうが良い さもなくば石のように沈むしかない 時代は変わるものだから この曲が発表された1964年にはまだ温暖化による海面上昇など想定されていなかったし、ディランがこの比喩で何を示唆していたのかわからない。しかしダーウィンの適者生存説のように、わたしたちも変化に適応していかなければならないことを歌っているのは明らかだ。 先日、突如わたしの使っていたMacBookが壊れてしまって、前回のnote更新はスマホからおこなった。このnoteも同じくスマホで書いていて、操作の勝手の違いがじつにまどろっこしく感じる。 いままでと同じように推敲しながら長文を書くのにはスマホからではかなりエネルギーが必要だ。たまたまパソコンが故障しただけなのだけど、なんだか自分の状況がこの曲でも歌われていることのような気がしないでもない。noteの書き方を変えるタイミングなのかもしれない。 いやいや、noteの書き方はほんのひとつのことにすぎない。身の回りから世間、政治、世界情勢と、あらためていろいろと変わり続けている。わたし自身こそアップデートが必要な時期が来ているようだ。 今日選んだ音楽映像のシネイドも、けっして幸せな形ではなかったけれど、変化し続けた生き様の表現者だった。

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          地図を眺めていると…時代は変わる?

          元日の大地震のあと、よく地図を見ている。地震があってから気がついたのだけど、能登半島北部は北側ほど標高が高い。解像度をあげて地形図を見ると過去の隆起を彷彿させる段丘のような地形が見える。これまで何度も地震があって、そのたびに隆起し続けていたことがわかる。 実際、今回の地震でも半島の北側の海底が隆起して海岸線が広がったとの報道があった。地震の前後の空中写真が公開されてそれは明らかになっていた。ただ、潮の干満が見かけの海岸線に影響するので、具体的な調査報告が出るまでは正確な変化

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          書き初めならぬ牡蠣初めで気分一新

          この年末年始はどこへも行かずに過ごしていた。かと言って昨年の疲れがとれるでもなく、むしろメリハリのない毎日で気分はマンネリ気味だった。そのせいか新年早々どうも調子が出ない。仕事はじめは4日。木曜日と金曜日は淡々と仕事をこなしはしたものの気分が晴れないでいる。 どこかで誰かが言っていた。蓄積したストレスになんとか持ちこたえていたところに良くない情報が加わればかなり辛くなるのだと。そうだと思う。 年初に起きた大地震のニュースは大きなストレス源だ。ニュースだけでストレスだなんて

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          新年は“はえぬき”パエリャで塞翁が馬

          この年末年始は帰省も旅行もせずに自宅で過ごしている。年末に惣菜店のオードブルは買ってきたものの、典型的なおせちもお雑煮もなくいつもとあまり代わり映えのない食生活だ。 お正月の三が日、近所のスーパーは閉店。食材の買い置きはとくに多くはなかったのだけど、冷凍していた赤エビがある。ここはわたしの十八番、パエリャでも作ろうか、という話に落ち着いた。 しまいこんでいた36センチ径の大きなパエリャ鍋を出した。いただき物だったけど、大きすぎて一度も使わないままになっていたものだ。 パ

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