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ナニを創るのか

学校を作る。
図書館を作る。
井戸を掘る。

それがゴールの支援をたくさん見て来た。
時には関わって来た。
一つわかったことは、そのゴールは現地の人にとってはスタートであり、希望の灯火だった。(かもしれない)

その後、移譲がうまくいかず、メンテナンスがうまくいかず、調査がうまくいかず、結果、マラソンのように長く続くはずだった道へのスタートは、予想外に短い50m走のようにゴールを迎えたりもする。

(人生とはそんな予想外な出来事はよく起こったりもする)

そんな”僕ら”の”ゴール”の満足感や思い出の象徴をカンボジア国内いろいろなところで目にすることができる。
カンボジアの貧しいと言うイメージを活用して、心では乞食と嘲笑いながら、しかし表向きは現地の子供を支援、なんて謳う人もいる。

大なり小なり、思惑が入り混じりせめぎ合う、それがカンボジアの一つの側面でもあるとも思う。まるでバイヨンのように、色々な顔を覗かせるし、見たいように見せてくれたりもする。

では、国際協力は必要なのか、不要なのか。
僕個人としては、国際協力は大いに必要だと思う。

それはカンボジア(人)のために国際協力が必要である、の主旨ではない。
国際協力をしたい人たち(主に先進国の人々)にとっての経験値向上、自己肯定感だったり承認欲求を満たし思い出と笑顔に出会う”精神と時の部屋”として、必要なのではないのか、と思うのです。

結果、Win Winな側面も多くあると思うし、現地の経済が多少なりとも動くし、幸福感も味わえるのは素晴らしいことであると思う。

でも、時代は生き物であり、人は成長する。
そのはずだけれど、カンボジアへのイメージの成長曲線は極めてスローだとも思う。

先日も日本へ帰国した際に二十歳の学生さんに「カンボジアは電気あるんですか?」と真顔で聞かれ、真顔すぎてこちらが動揺してしまった。

何が言いたいかと言うと、支援の仕方も変化していくべきだ、と思うわけです。

目に見える支援から、目に見えない支援へ、と。

前ぶりが長くなりましたが、今、僕もプノンペン担当として関わらせてもらっている団体の話へ繋がっていきます。

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