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声が聞こえた

パリは朝6時半。私は今、ミラノに向かっている。

ミラノで行われるニッチフレグランスの展示会「Esxence」へ視察に行く。ミラノでは1泊し、その後ウィーンへ移動、2泊したのち土曜の夜にパリに戻り、日曜はあれこれミーティング、その翌日月曜日のフライトで東京に戻る。

なかなかのハードスケジュールだ。


今回のパリ滞在はいつも以上に忙しくなってしまった。たまった仕事もたくさんあるし、こちらでやりたかったことも一部中途半端になってしまった。もっと時間を効率よく使えたら、と考えるが、きっとこれが今の私の限界なのだろう。これ以上やるとパンクしてしまうのかもしれない。


ぷしゅ。


時間が有限であることをひしひしと感じる。それに伴い私はいつか死ぬことをより具体的に実感するようになった。ちょうど一年前に母が亡くなったように、私も遅かれ早かれ、屍となるのだ。

一年前のnoteの記事を見てみる。母に残された時間は3週間ほどだった。薬の影響で少しずつボケはじめた彼女を、私は愛おしく思っていた。ただその頃はまだ、母が本当に旅立ってしまうことを、本当の意味では理解できていなかった。本当に愚かだったと思う。

ちょうど一年前の今頃だっただろうか、夜中に母が、うなされながら「お父さん」「お母さん」と口走っていたのは。私は母が、その両親に対してあまりいい感情を抱いていないと理解していたので、その言葉を意外に思った。母は本当は、彼女の両親をどのように捉えていたのだろう。終末介護の1ヶ月半、本当はもっと話すことがあったのかもしれない。


本当のことばかりが本当に失われていく。


自殺のニュースが出るたびに、父は「何も死ぬことはなかったのに」と必ず口にした。父にしてみれば、どういう状態であれ生きている方が、自殺という選択肢よりも適切であるようだ。私にはその発言がいつも無責任であるように感じられた。死よりも苦しい生はある人にはきっと存在していて、それを頭ごなしに否定するのは間違っているように思われたのだ。

母が病院で自ら治療の放棄を選択した時、父はどう思ったのだろうか。それは解釈に解釈を重ねれば自殺になりうるから。

母は最期の1ヶ月半を、それまで一緒に暮らしていた父ではなく、私と過ごすことを選んだ。それは様々なことの積み重ねによりそうなったわけだが、もしかしたら母も、父の自殺に対しての発言に反感を抱いていたのかもしれない。

母の在宅介護中、父が2度ほど私の家を訪ねてきた。その時に父は母を抱きしめて泣いていた。それを見た私は、ほんの少しだけだが、父のことを理解できたような気がした。

気のせいかもしれないけど。


パリのオルリー空港でミラノ行きの飛行機を待っている。耳に入ってくる会話の中にイタリア語が混じりはじめた。しっかりイタリア語の勉強をしてからミラノに行く予定だったのに、私はありとあらゆる言い訳を使って結局あまり勉強せずにミラノに到着することになる。まぁいいさ、次にイタリアに行く時は、ある程度会話ができるようになっておこう。今回のところは見逃してあげようじゃないか。


ここしばらく忘れていた母との最期の1ヶ月半を、どういうわけかつらつらと思い出している。そういえば去年は母の介護の関係でミラノの展示会に足を運べなかった。ということは2年ぶりのミラノか。そんな前のことだったっけ。

母の介護生活を思い出している空港にて、ふと、母の声で「私たち、頑張ったね」と聞こえた気がした。それはまわりのフランス語やイタリア語での会話とはまた別の、きっと私の内側から響いてきた言葉だった。

私は本当にその声を聞いた。そして彼女ははっきりと「私たち」といった。

あの介護生活を振り返る時、今まではそこには敗北のニュアンスがあった。それはきっと、私がどこか後悔しているところがあったからだと思料する。

先の母の声には勝利の響きがあった。そして、私の介護生活は、母の協力があった上で成り立っていたことを改めて思い出した。

そう、私たちは、勝ったのだ。


私が最期を迎える時、私は勝てるだろうか。その時私は、誰と共に闘うだろうか。

もしかしたら、ひとりかもしれない。

いや、そんなことはない。その時はきっと、母が助けに来てくれるはず。母はいつまでも、私の中にいるのだから。


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