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言葉の刃物

もう25年以上も前のことだが、今でも折に触れて思い出される出来事がある。それは私の人生における「後悔」の一番最初の記憶であり、また今までで一番頻繁に思い返された事でもある。

その一方で、私はこの出来事について今まで誰かに語ったことは一度もないし、3年以上毎日書き続けているこのnoteでもそれについて触れてこなかった。なぜそうしなかったのかと問われると、ひとつはそれが他人にとっては取るに足らない出来事であろうと思われたからであるが、それにも増して、それを語ることが私にはとても恥ずかしいことに感じられたからだ。ただ、いつか何らかの形でこの出来事についてきちんと書きたい、とずっと考えてはいた。

今年の4月下旬、noteの「創作大賞」の募集を見た時、私はこの出来事について記事を書いてそれに応募する絶好の機会だと考えた。考えたものの、それについてずっと書けないまま、とうとう応募締切の前日、今日7月16日となってしまった。この2ヶ月弱の間、忙しくなかったといえば嘘になるものの、書く時間はそれなりにあったはずだ。それをあれやこれやの言い訳を自分にして、「どうやったら書かずにやり過ごせるか」と考えていたように思う。私はなんと愚かな人間なのであろうか。

それでも、今このようにその出来事について書き始めたのは、もしこのタイミングで書かなかったら、この出来事は永久に私以外の誰の目にも触れずに葬り去られてしまうのではないか、と思ったからだ。夏休みの宿題に手をつけずにてんてこまいになる前日を齢35でもやっていることになるが、とりあえずこれをひとつの契機と捉え、私はこの出来事を私の外側へと送り出すことに決めた。

とはいいつつも、先にも述べた通りにこれはいってしまえば取るに足らない出来事である。読み終わった後、あなたは「なんだ、たったそれだけのこと」と感じてしまうかもしれない。

だから、ここまであれこれ言い訳がましく書いてきたが、とにかくあまり期待せずに読んでほしい。期待というのは、往々にして諸悪の根源なのだから。


小学校3年の時のこと。

それが小学校3年時であると明確に記憶しているのには理由がある。私が通っていた小学校では、通常担任の先生はひとつのクラスを2年間担当することになっていたが、なぜか1年ごとに受け持つクラスを変える先生がひとりだけいた。元サッカー選手で、色黒で体格が良い、当時40歳くらいの男の先生だった。これはその先生が私の小学3年のクラスの担任だった時に起こった出来事であり、彼はメインの登場人物ではないものの、少なからずこの件に関わっているため、私はこの出来事の時期を覚えているのだ。

どうしてその先生が例外的に1年ごとにクラスを変えることができていたのかはよくわからないが、彼がそうする理由は「ひとりでも多くの生徒と関わりたい」だった。なんとも聞こえのいいセリフだ。

彼は生徒からも保護者からも、「いい先生である」という評価を勝ち得ていた。スポーツ万能で子供好き、学校や社会の常識にとらわれずに自らが正しいと信じることを実行する素晴らしい先生、というイメージを定着させていたように思う。

ただ、私は彼に対しては懐疑的だった。確かに彼は子供が好きだったと思うし、悪い人ではなかった。学校というコンサバな組織の中で例外的に毎年担当するクラスを変えることを認めさせるのも、そう簡単ではなかっただろう。それでも私は、彼の「物事をいたずらに単純化するところ」が、どうにも好きになれなかったのだ。


こんなことがあった。

ある日、私が自転車で近所の歯医者に行く途中に横断歩道を渡っていたら、右折してきた自動車にはねられてしまった。西陽が強く、右折時に運転席からはちょうど逆光になっていて、私が目に入らなかったらしい。私はその事故の瞬間をよく覚えていないのだが、多分自転車の横から後輪あたりを軽くぶつけられた程度だったのだろう、倒れたものの私にほぼ怪我はなかった。現場検証に来た警察も、「この程度ですので、大ごとにせずに簡単に処理してしまいましょう」といっていたほどだった。

翌朝、ホームルームの最後に、私は先生に名指しされ、クラスの中でひとり立つように言われた。

「昨日、交通事故にあったんだって?どんな状況だったのか、説明してくれる?」

彼は私にこういった。私は彼が事故のことを知らないと思っていたので少々驚いたが、警察から私が交通事故にあったことの報告が学校に入っていたのだろう。私は事故が起こった場所や時刻とともに、どのようにしてそれが起こったのかを簡単に話した。

「さて、これは車の運転手と渡辺くん、どちらが悪いと思う?」

先生はこんな質問をクラスに投げかけた。クラスの何人かが運転手が悪いという主旨の回答をした。すると先生は、

「どちらも悪いです」

と断言し、この話を終わらせてしまった。

私は、なんだか釈然としない気持ちのまま着席した。現場を見てもいない人が、まるで裁判官のようにその出来事の善悪を断ずることに、それが先生だとしても全く納得がいかなかった。

今思い返すと、彼は残念ながらあまり賢い人ではなく、複雑なことを考えるのが苦手だったのだと思う。だから、本来であれば簡単には答えの出せない事象に対し、極度に単純化された分かりやすい主張を、さも唯一の正しい答えであるように堂々と提示することしかできなかったのだ。

しかし彼は、そうすることによって逆に「自分の意見をしっかりと持っている素敵な先生」という評価を獲得できていたともいえる。彼が戦略的にこういったことを行なっていい評判を獲得しようとしていたとは到底思えず、あくまでも彼の性格によるところなのだろうが、もし仮にこれが全て彼の作戦だったとしたら、なんだかポピュリズムの扇動者のようで怖さすら感じてしまう。


そんな彼が、国語で詩に関する授業をした時のこと。彼は黒板にこんなことを書いた。

目で書かれた詩:20点
耳で書かれた詩:40点
舌で書かれた詩:60点
鼻で書かれた詩:80点
心で書かれた詩:100点

私たちの時代の学習指導要領では、詩は小学校3年生の国語ではじめて習うものだった。先生は、私たちに詩とは何であるかを教えるにあたり、上記の内容を提示した。

つまり、視覚や聴覚といった普段からより慣れ親しんでいる感覚に基づいて書かれる詩は価値が低く、心で感じた抽象度の高いものこそが詩として高い評価を獲得しうる、と言いたかったのだろう。これにしたってかなりの極論というか、もはや暴論であろうが、彼はいずれにしても「そういうタイプ」なのだ。

また彼は、「詩においては嘘を書いてもいいんだ」と言ってのけた。それはどこか「嘘である方がよい」というニュアンスを含んだような言い方であるように私には感じられた。

その授業では詩を書き、そして書けた人から順にクラスの前で自分が書いた詩を読み上げることになった。詩が読み上げられると、先生がそれを「『耳で書かれた詩』だから40点」というように、その場で採点していった。採点基準はその詩が「何によって書かれたか」のみで、詩としての本来の巧拙や着眼点といったものはことごとく無視されていた。

私が書いた詩を発表した時、彼はそれを「心で書かれた」という理由のみで100点にした。100点をもらったところで、それが成績に反映されるわけでもなかったが、それでも悪い気はしなかった。

“ちょろい”と感じた。

調子に乗った私は、もうひとつ書いてみることにした。今度はせっかくだから嘘を書いてみた。

こんな内容だった。

朝は米と味噌汁
昼は焼きそば
夜はカレー
たまには変えてくれ!

この詩には何の意味もなかった。別に家で食べる食事がいつも固定されているわけでも、私が母の作る料理に不満があるわけでもなかった。ただ私は、複数の感覚を用いて書かれること(その時点で私は「心」のみで書かれるのは面白くない、と感じていた)、その感覚のうちひとつが「心」であること(それでも「100点」は欲しかった)、そして、嘘であること(先生の説明は嘘を書くことを“推奨”しているように感じられた)、の3点に注意して書いたのだ。

これを発表した時の彼の採点は、「『舌』でも書かれているけど、『心』でも書かれているから100点」と、またしても簡単に私に100点をつけた。

その時においても彼の採点方法が正しいとは微塵も思わなかったが、詩というのはなんだかひどく簡単なものだなぁ、とぼんやりと感じた。

深い考えもなく書かれたものであった手前、その授業が終わると同時に、私はその詩のことをすっかり忘れてしまった。


それから何日か経ったある夕方、学校が終わり家に帰ると、母が泣きながら玄関にいる私に向かってきた。

「これ、どういうこと?」

怒り狂った彼女の手には、私が書いたあの詩が書かれた紙があった。彼女がどのようにしてその詩を手にしたのかはよくわからないが、既に興味関心の外にあったその詩が書かれた紙を、私は適当なところにほっぽり出していたのだろう。それを彼女は“運悪く”見つけてしまったのだ。

その時はじめて、私はその詩が母を傷つけうることに気がついた。その時までそれに気づかないほどに私は、その詩をチャランポランな気持ちで書いていたのだ。もちろん私は、母の日々の料理に不満など全くなかった。あの詩は言ってしまえば先生に“唆されて”書いたものだ。ただ、書いたのが自分である以上、そんなことは全く言い訳にならないし、読まれてしまった時点でもう手遅れになっていた。

母の怒りは止まるところを知らなかった。

「私がいつご飯じゃなくてお米出した?毎日カレーかしら?そんなことないでしょ。それともそんなふうに思って毎日ご飯食べてたの?私、とっても悲しい」

母がこんなにも怒っているのを見るのははじめてだったこともあり、私は圧倒されてしまった。何か言い訳をしようにも、私が口を挟む余地は全くなかった。

「言葉はね、刃物になるんだよ。刃物と同じくらいに、人を傷つけることができるんだよ」

この母の台詞が一番堪えた。私は、とんでもない過ちを犯してしまった。私は母を、大好きな母を、覚えず言葉の刃物で刺してしまっていたのだ。

私はただ、謝ることしかできなかった。


母が私のことを許してくれるまでにどれくらいの時間が必要だったかについて正確には覚えていないが、そう長くはかからなかったと思う。そしてそれ以来、その詩が話題にのぼることは一度もなかった。

その一方で私は、母を私の言葉で傷つけてしまったことをそれ以降ずっと忘れることができなかったし、その詩を書いたことを深く後悔し続けた。折を見てきちんとそれについて謝りたい、と常に考えていたし、その気持ちは歳を重ねるごとに強くなっていった。

ただ私は、いくつになってもどうしてもそれを言い出せずにいた。

このようにして私は、今年2月に35歳になった。


母がこの世を去ったのは、今年3月26日のこと。長年患っていたC型肝炎の影響で、2018年の夏に最初の肝臓癌が見つかった。新たな癌が見つかるたびに入院と手術をする生活を続けてどうにかこうにか小康状態を保っていたが、昨年の秋に癌が骨転移してから急速に病状が悪化し、今年の年明けに腹水が溜まって入院した際の検査で、新たな肝臓癌が複数できていただけでなく、その癌が肺にまで到達したことが発覚した。その時点で治療を放棄し、在宅での緩和ケアをすることに決まった。治療の余地が全くなかったわけではなかったが、それが効果を生む可能性は限りなく低く、また母自身がこれ以上治療を継続することを望まなかった。

私の誕生日直前に宣告された母の余命は、2ヶ月だった。

退院時に母は、彼女の人生においてきっと最大のものであっただろう我儘を言った。それは、それまで一緒に暮らしていた私の父のところに戻るのではなく、息子である私の家で最期を迎える、というものだった。私は彼女の我儘を聞き入れ、オフィス兼自宅に介護用のベッドを入れて彼女を迎えた。そしてそこから1ヶ月半、彼女が息を引き取るまでの時間を一緒に過ごした。

その1ヶ月半は、悲しみと幸せに満ち溢れたものだった。私たちは死そのもの以上に「別れ」が訪れる悲しみを強く感じていたが、その一方で、母が介護生活の中で一番多く口にした言葉は間違いなく「幸せ」だった。

介護生活中、私は母とたくさん話をした。残されたわずかな時間を、私たちは愛を確認することに費やした。

母の介護生活の中で私は、小学3年生の私が書いた詩のことを、きちんと謝ろうかと何度か考えた。これが本当のラストチャンス、この機会を逃したら、もう一生母に謝ることはできないのだ。

結果的に私は、それを実行しないことにした。最期の幸せな時間に過去のネガティブな思い出を持ち込むことを、きっと母はそもそも望んでいないだろうし、この謝罪は遺される私の自己満足にしかなりえない、と思ったからだ。

それが本当に正しいことだったのかどうか、母の死後しばらく、私にはよくわからないでいた。


「裕太は私の子供であり、パートナーであり、そして私の全て」

母は旅立つ3週間ほど前に私にこう告げた。母のこの言葉は、私の胸に深く刻み込まれた。これは私たちが、親子という関係を超えて深く愛し合うことができた証であろう。


ふと思い出した言葉がある。

Love means never having to say you're sorry.

"Love Story"(日本語タイトル:『ある愛の詩』) 監督:アーサー・ヒラー

「愛とは決して後悔しないこと」とか「愛とは決して謝らないこと」と訳されるこのフレーズ。訳の正確性はさておき、深く愛し合っていた母と私に、結局のところ後悔も謝罪も必要なかったのだ。


夏休みの最終日に手付かず宿題に追われるようにして書いたこの記事だが、思いがけず上記の言葉が頭に浮かび、私は私の行いが肯定されたように思うことができた。諦めずに取り組んでみると、何かしらいいことが起こるというものなのだろう。

あるいは、もしかしたら真夜中に文章を書き綴っている私を見かねて、天国の母が小さな“イタズラ”をしたのかもしれない。もしそうだとしたら、知的な彼女らしい素敵なイタズラだ。


夏休みの宿題がこのように無事に(?)終わったということは、明日から新学期が始まる。この宿題から学んだことを胸に、明日からまた気持ちを新たに生活をスタートさせようと思う。

そして、来年の「創作大賞」は、もっと前から準備しよう、と心に誓った。そうしないと「君も昔から変わらないねぇ」と言われながら、天国の母にまたイタズラをされてしまうから。

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