「西東三鬼はパンクスである。」

「西東三鬼はパンクスである。」

(「俳句」昭和55年1月臨時増刊「西東三鬼読本」を偶然手にしたこと) 叶裕

新興俳句のひと、西東三鬼といえば

水枕ガバリと冬の海がある

小脳をひやし小さき魚を見る

中年や遠くみのれる夜の桃

おそるべき君等の乳房夏来る

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

こんな句が代表句として浮かぶだろう。この年末、偶然古本屋で山積みの中から抜き出した「俳句」昭和55年1月臨時増刊「西東三鬼読本」。ここには膨大な句と随筆・小説や批評まで網羅され、開いた途端会計に向かうほど強い引力を感じたのである。ここでそのひとつ一つはとても紹介出来ないが正月の暇をみつけて(これで案外多忙なんである)読み耽った中、特に随筆に関して感じたことを書いていきたいと思う。

山本健吉は三鬼の特異性について俳句の開始時期が中年からと遅く、それ故青春性に欠けるからだと評している。幼少時に母を流感で亡くし、長じて歯科医師としてシンガポールに在していたことがボヘミアン的性向を育み、伝統というものへの反撥、新興俳句運動の蕾芽を内包させていたのかもしれない。

彼の第一句集「旗」の自序には

「或る人達は「新興俳句」の存在を悦ばないのだが、私はそれの初期以来、いつも忠実な下僕である。(中略) 私の俳句を憎んだ人々に、愛した人々にこの句集を捧げる。」と書いてある。
こりゃパンクじゃないか。こんなこと昭和九年に書くなんてえのはアプレゲールか七十年代のパンクスである。

この読本の良いところは三鬼の随筆がなかなか読ませるということ。当時珍しい旅客機に乗った顛末や、大の猫嫌い(三鬼の事ね)がいかにまわりに懐柔され次第に猫好きとなったかの顛末や、中には若い頃の失恋譚を請われて書いてみたり、彼の周りにいる波郷はじめ闊達な若手俳人らの事を書いてみたり。おもしれーんである。

オッとなったのは石川桂郎についての記述であった。ぼくは以前「剃刀日記」や「高蘆」「俳人風狂列伝」を読み、勝手に中肉のおっとりした性質の寡黙な桂郎のイメージを育んで来たが、三鬼の書く桂郎は芥川龍之介によく似たカミソリのよう細面のお洒落な照れ屋で、三鬼が行く場所ことごとくに風のように現れ消えてゆく神秘的な人間と描いている。俳句はその作品を持って人格たるべしという向きもあろうとは思うが、やはりそこはそれ人となりを知ると句が際立って見えるものなのである。

総じて三鬼は江戸ッ子特有の外交的でありながら含羞と短気をないまぜとしたカラリとした性格で、その文にもそれがありありとしていて読むに軽快な後味を残す名文家なんである。俳句だけを見てその俳人の実相は分からない。その人物は文章の表裏行間に表れるものだ。

その中に「酷烈なる精神ー新人諸君にー」という随筆がある。そこまでの伝統的俳句を信奉してきた大きな括りでの「俳人」等の反省が連ねてある。いわく今日の俳句は如何にあるべきかを論ずるにあたり、自らを含む既成俳壇がいかに甘えてきたのかと羅列する。我々は詩型に甘え、技術に甘え、季節に甘え、そして俳句という特殊な分野に甘えてきたのだと。その甘えから日々量産される工芸品をはたして芸術と呼べるのかと三鬼は危機感を煽り悲憤するのだ。このままでは俳句は秋を迎えてゆく。それに竿を挿すのは我々新興俳句だと言うのである。この危機感はのちに桑原の第二芸術論に結晶するわけだが、いまそれを書くことはしない。

しかしてこの文はぼくの胸にグッさりと刺さったのである。ぼくもまた歌人を称しながら四十路後半から俳句に入った最後発の徒である。現代若手俳人の急流を遡るしなやかな句を見て口あんぐりの毎日なんである。そこでコンプレックスを拗らせるヒマはもう残されていない。いつもこうして駄文を散らしているのはぼくなりの俳句へのリスペクトゆえだ。つねに外の目を持つべし。それは表現者のザイルであると三鬼は檄を発しているのだ。遅いなら遅いなりのやり方があらぁ。パンクス西東三鬼。この人の言葉は俳論としては異端かもしれない。しかし異端のさらに隅っこにあるぼくには目を見開かされる言葉が並んでいる。慌てずに咀嚼していきたい本である。

2019年1月2日 叶裕

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?