「ハーフサイズ・ア・ゴー・ゴー」

「ハーフサイズ・ア・ゴー・ゴー」

俳句はハーフサイズの写真、もしくはポラロイド写真のようなものだと以前から思っているのである。LOMOのようなピンボケもアリだし、構図を完璧に構成したもの、カッキリしたシャープなものもアリだ。マン・レイのように、大道のように、ブレッソンのように、、ってぼくの知識はいつも古臭い。
でも、それ以上でもそれ以下でもない事を忘れてはならない。

きみはシャッターを切る瞬間「詩情」を意識するだろうか?応と言うひとは稀であろう。もしくは後付けの嘘だ。そこに撮りたい対象があるから、さっとカメラを構えて撮るんである。それだけなんである。

ぼくの説が正しい(世の中で一番嫌いな言葉だ)とすれば俳句は詩ではない。
俳句はガバリ摑みとるものであり、多分に動的なんである。詩のように抒情や形而上的内面の発露ではない。それは読者が勝手に読み取り、結果そう言うハナシとなるだけなんである。

しかしそこに至るまでにはやはり学ぶべきものは多いとは思う、いやいや、切れや季語、古典の文法をガリガリ学べと言っているのではない。俳句的な目を養えといっているのだ。すると撮りたいモノが、撮りたい角度が、距離が、明度が、照度が、異なってくる。

ぼくは写真を作品として出す直前までそれを俳句の目で見ている。そう気付いたのは少し前だけど、ぼくの写真は底流で俳句と繋がっているのだ。

巷間「俳句は世界最短の詩である。」と言われている。過去ぼくもそう思ってきた。しかし俳句と短歌、そして写真を日々出し続け、友人との濃厚な俳談を交わして来た結果、俳句は詩と呼ぶことに抵抗が出て来たのである。写真に近いんである。

いまドナルド・キーンの「正岡子規」を読み始めたところだ。キーンは正岡子規を通して俳句の本質を見抜いていると友は言う。この本には何があるだろうか。ぼく自身もアップデートし続けなれければならない。

ホントはさ、俳とは?なんてメンドクセエやつじゃなくてさ、俳句と写真を双方の良さをうまく取り入れながら一挙両得してえだけなんである。
写俳は嫌い。笑

ほんまやで。

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