「運河5月号を読む」

昨日「運河」編集長谷口智行さんから「運河5月号」を拝領した。ぼくは以前から結社や壇と名の付く世界へ少なからず偏見をもって来たが、最近意趣が変わってきたのは智行さんのお陰かもしれない。ありがたい事である。

●一句鑑賞

山桜花芽も葉芽も膨らめり 茨木和生

花の後に葉が出る染井吉野と異なり、花と葉が同時に出る山桜は色味が少し褪せて見えるのが特徴である。しかし山路に見る山桜の美しさは格別だ。濃厚な山の気配に添えるには丁度良い色味なのである。どこか人工的な風情の染井吉野に比し、山桜を愛でる愉しみは吉野に住まう茨木ならでは視線であろう。

落し角拾ひし二本目も持てり 茨木和生

下町に在していると目にする動物とは野良猫と鳩、カラス、スズメが精々であり、野良犬すらも見かける事は少ないこのご時世である。比して掲句には濃厚な野生の臭いがする。腰を曲げて落し角を拾えばよっこいしょおと声が出る。それは鹿と同じ目線だ。人と自然はここに混交し、ある種の緊張感が生じている。しかし「二本目も持てり」のおかしみがそれを霧散させている。円熟を迎えた俳人の強烈な個性をこの句に見る。

酒粕を撒きて千年藤咲かす 谷口智行

兵庫県宍粟市にある大歳神社は藤の宮と呼ばれ、平安期に植えられたと言われる千年藤は見頃に境内を覆い尽くし、藤房は1メートルにも及び、えも言われぬ芳しい藤の香りに包まれるという。堆肥として同県灘の酒粕を使うとは、なるほどと唸らされる。酒粕は栄養価も高く、優れた堆肥になる。ここには万朶の桜のとはまた趣の異なる異世界があるはずだ。日本人は春に異世界に身を置く事で転生を疑似体験する。谷口もそれを強く感じ取っているはずだ。

まだ熱き燃さしひとつ御燈祭 早川徹

昨年里の熊野吟遊で話には聞いていた新宮市神倉神社の御燈祭 。神武東征に起源があると言うとんでもなく古い祭である。神倉神社ゴトビキ岩に白装束の腹に荒縄を巻き、松明を点けた男達が自然石で出来た階段を駆け下りる勇壮な火祭りである。階段は火の道となり、六根清浄を達成できる。夏の早朝ここに登ったことがあるが、松明を持つとは言え、足を踏み外せばただでは済むまい。彼等はここで火に焼かれ、古き神の贄となり転生をするのだ。まだ熱のある燃えさしは祭のあとの余韻を強く感じさせ、作者はたしかに新生の達成感と虚脱の中にいる。

●谷口智行「災害考」を読む

災害大国に住む日本人には「忘れる」という遺伝子回路が備わっているのではないかと思うことがある。かの阪神淡路や東日本の大震災や熊本の震災ほか、台風、水害、火山活動、そして大戦など、ぼくが知っているだけでも多くの災厄がこの国を襲ってきた。勿論被災者は長く苦しんでいるのだが、この国の復興の早さは特筆すべきものがある。その下地として積極的に忘れることで次のステップを踏みやすくするという回路が備わっているのではないだろうか、なんてすこし不謹慎な思いを持っている。

南海トラフ地震が予想されて久しいが、ぼくらは来るべき災厄に対してまたしても他人事のようになってはいまいか?と「災害考」を読んで思ったのである。ぼくらはスマホの中で起こる怒涛のような時流に身を任せて歴史から学ぶ事を忘れてはならない。その為にも書き続け、そして読み続けねばならないのだと谷口は言っているのだ。その為にはメランコリーな文体ではなく、正確な調査を基にしたソースが必須である。「災害考」は結社誌だけに収めるには勿体ない。一読に値する物だと強く思う。

と、ここまで読んで来て、茨木、谷口、早川といういわば三世代に渡る優れた作者の揃う運河の盤石を強く感じたのである。今後彼等の更なる活躍を期待して止まない。

今月も運河を献呈して下さった谷口智行兄に感謝申し上げる。ありがとうございました。

叶裕


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