蛹化から羽化へ (柏柳明子句集「揮発」を読む

ぼくは「ディーヴァ」という語が兎に角嫌いだ。商業主義的音楽産業のやつらにこの言葉を使って欲しくないと常々思っている。

タニア・マリアというブラジリアンシンガーがいる。圧倒的な歌唱力とリズミカルなスキャットは観る者を一瞬で虜にする魔力を持つ、まさにディーヴァだ。飾り箱の中綺麗に成型されおんなじ顔をした日本のポップス歌手に飽きたら是非聴いて貰いたい。「歌う」とは何かをタニアは歓びと共に教えてくれるだろう。

詩は口にしてはじめて詩足り得るのだと言い放ったのは福島泰樹だが、その一点においてぼくは彼を尊敬し続けている。アウトプットの怖さを知っているからだ。文芸人といえど表現者ならばその怖さを知らねばならない。

柏柳明子という俳人がいる。「炎環」にて俳人石寒太に師事し、2012年には現代俳句新人賞をとり、現在「炎環」同人と「豆の木」に属している。

彼女とは居酒屋句会で数度お会いしているのだが流石というかその俳句はオリジンの匂いのするもので、その選句鑑賞についても芯のある視座に基づいているものであることはこのボンクラオヤジにも直ぐに分かるのである。

そして飲みながらあんれー、アンコちゃん(酔ってるからごめんね)、だーれかに似てるぞーとおもってハッとしたのである。

タニアだ。タニア・マリアに似てるぞ!と。
それだけで勝手ながらすごく親近感が湧くのである。この人、たぶんグルーヴ感すげえはずだ。聞けばフラメンコやってるんだそうだ。成る程。やっぱりそうだ。この人からはラティーノの匂いがする。

そんな彼女の句集を入手したのである。
見れば96年に炎環入会とあり、もう二十数年の俳歴を誇るベテランなんであるよ。驚いたか。そしてこの句集はこれまでの俳歴の集大成なのだという。

「揮発」
揮発:常温で液体が気体になる事。
なるほど。なぜこの題となったか、その理由は句集の中にある。

【変声期】

石鹸玉吹く社会人三年目

辛きとき思ひ出すひと冬の星

ゆく年のしづかに止まる印刷機

句が素直なのは若さと石寒太の指導の賜物か。
二十代の俳人としては尖りが少ないがしっかりとした視座の萌芽がここにある。
仕事を始めて三年目というのは最初の曲がり角だ。おそらく精神的に潰れそうな時にも俳句は作者の側にたしかに寄り添っていることがわかる。

【いつもの顔】

明易の人魚のやうに抱かれをり

青林檎カッターナイフほどのNO

さよならの高さにありし夏の月

ぼくには二十代の娘が二人居るのでこんな句を読まされると、なんかこう胸がぎゅうと締め付けられるのだ。てめえの恋愛の季節なんかとうに過ぎてからに、娘の恋情に締め付けられる。
俳句は心情から距離を持たせるものだ。だからこそ読んでいてページを閉じたくなりもするのよ、おいちゃんはさ。

【解法】

大年の教室あをくありにけり

しやぼん玉平均律の震へかな

寝転べば金管楽器となる寒夜

作者の句には楽器や音楽のシーンが散見される。それは彼女がゴスペルやフラメンコをする中で得た視座に他ならない。練習場の、舞台の匂いは格別だ。ここには俳人とは違うエモい動物のような人種の国がある。彼女はその匂いをよく知っている俳人なのだ。

【360°】

ハレルヤと泡の弾けるソーダ水

籐椅子に謝る時を待っている

梨剥いて360°ひとり

霜柱小さく名前呼ばれをり

こりゃあ所帯持ったなと思うわけ。句風が変わり始めた。色々有りましたけど結婚しましたと。おんなの大きな転機だ。ものすごく行ったり来たりして迷いが凄い。石寒太の跋にも作者が大スランプの時期とあるが、おそらくこの時期ではなかろうか。それも含めて居るところに好感を持つ。つるつるつやつやなんて表現者にあるまじきことだ。表現者はバサバサゴリゴリシワシワザリザリでなければならん。

【あかるくて】

挟まれていよいよ慎ましきレタス

春昼の音叉机に立たせをり

天の川袋のやうに夫寝る

結婚生活と夫の存在はおそらく作者に新鮮な視座をもたらしたろう。それは新たな着座位置であり、不安定なブラウン運動だ。この句の中に安定とその反作用の薄い不満がみえる。
作者はそれを否定していない。

【行きたがる】

炎昼の柱一本づつに音

鍵盤を溢れてゆきし夕焼かな

どこからが睡りどこからが秋霖

句が熟しはじめている。ここまでの彼女はさながら蛹のようだ。そして今、濃褐色の蛹の胴は割れ、大きく力強い翅が覗き始めている。

なるほど。柏柳明子はこういう人かと合点した。下手に作り込まない句の並びは読者に親切である。句集とは自分はこんな人ですよという俳人からの名刺であり挨拶なのだ。下手な小細工休むに似たりなのである。

蛹の中はドロドロの液状だという。それがいつしか形を成し、翅が生えてゆく様は神の存在を意識させるものだ。若い頃の作者はおもたい液状であったのだ。それが次第に蛹化し形を変えてゆくプロセスをこの句集に垣間見たのだと確信する。

最後にこの句集イチの句を紹介して終わろうと思う。

緋のダリアジャズシンガーの揮発する

叶裕

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